朝起きて、また悪しきネットサーフィンが始まった。知りたい情報をずっと調べていられるから、はまってしまうのだろう。学校の授業は、つまらないことも、聴かなきゃならない苦痛というのがあって、でも、それによって我慢や辛抱するという人生にとって必要なことを学んだともいえるので、私は、堀江貴文の主張には、その点において反対である。もちろん、堀江貴文のようにクリエイティブな仕事につける方は、そのような人間でなければならない。しかし、みんなが起業できるほどの力があるわけでなく、適材適所ということで、一部のエリートを創造する教育であれば、HIUで行っていることは間違いではない。
茂木健一郎のyoutubeで、意識のことを問題にあげていた。人間の脳幹にチップを埋め込み、コンピューターに移せば、意識は永遠に生き続けて、不老不死も近いという言説に対して、真っ向から否定していた。ネイチャーに掲載されたその理論においても、意識を研究する学者23人から、似非科学であるという声があがるほど、無謀な理論であったらしい。それは、小保方さんのスタップ細胞であり、試験管で水だけで核融合反応を起こすことができることであり、そのような問題と同列ぐらいの内容で、あきれる話だということだ。↓
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茂木健一郎がいうところ、意識の問題を解明するには、今現在、すべての学問が意識にかかわっていて、その分野で最高の知識を必要としていて、なおかつ、それでもわからないというのが、人類の現在地であるという。アインシュタイン、ニュートンに匹敵するか、その2人を足してもいいぐらいの功績になる、ノーベル賞30個でも足りないぐらいというから、大変なことなのだろう。以前、私の記事で、川上量生が意識は実装できると豪語したことを、取り上げている。↓
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面白いこともいうものだ。釈尊の悟りの境地に達するまでは、25の段階があって、今は、10ぐらいじゃないか。そして、意識を取り上げた研究は、永遠に続く青天井だということだ。
私は、何故、意識について、これほどまでに、しつこく考えるのだろう。このブログの題名nyoraikunも大日如来から採用した。ブログのアドレスも、https://www.大日如来参上.com/というのも、曼荼羅の中央に位する大日如来からとったものだ。人間を大本で多くの手をあげて理解を示す仏、瀬戸内寂聴の人間曼荼羅というのもあったが、人間の心のありよう、意識のありようについて、永遠不可知の人間性に対して、答えをだそうとする努力が、私の人生の定義となりうるものだと、意識せずに認めていたことだろう。
茂木健一郎に、そう言われて、私は、視界が開けるような気がして、今日の朝は、気分が良い。
電車のガタンゴトンという音を、数字で表せないと思いついたところから、彼は、クオリアをひらめいたようだ。赤は赤であるという、この赤にまつわる感覚、月の裏に一角獣がいると聞いた時の、意識の志向性というものがなんであるのか。グラビアで惹かれる女性はなんたるか。先日、私がブログで書いた、自宅近くのツツジの花から、万葉集の死者を弔う詩にまで意識が旅をする不思議が何であるか。→
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動画では、プルーストの『失われた時を求めて』の話が、紅茶に角砂糖を一つ入れてマドレーヌを口にしたところから、過去の思い出が意識され、その一つ一つに、記憶がからんでくる。
幸福になるには、何かを得ることでなく、自分の中にある記憶を探ってみてはいかがだろうかというくだりは面白い。私もクオリアを言語化しようと、無限に続く階段を上っていく。それは、また、みなさんも――