nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

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30年前の小学校は、どこも学級崩壊だ!三島由紀夫の『美しい星』で慰める!

私は、1980年4月~81年3月生まれのいわゆる松坂世代である。40代になってから、松坂も老けてきて、憧れていたイチローも、白髪まじりで、あいかわらず野球馬鹿でいてくれているが、第一線で活躍しているわけでもないから、私も衰えている気分がしてくるから、「松坂世代」なる言葉はつかわないようにしている。スポーツ選手でたとえると、最初はいいけど、歳と共に、つかいにくくなる。

小学校低学年の頃に、湾岸戦争があり、アメリカのパトリオット、トマホークと、ドングリの実を投げる時に、掛け声として、口にしていたのを覚えている。今の小学生も、ハイマース、アイアンドーム、神風ドローンと口にして、ウクライナの戦争から影響を受けているのだろうか。

その戦争を終えてから、しばらくは、世界的に目立った戦争はなくなり、局地戦、代理戦争といったもので、小規模の民族紛争的なニュースは入ってきたけれど、日本の国益に直結するものではないから、マスメディアも関心を示さないというのが、本当のところかもしれない。

小学校6年生の頃に、自宅近くの友達の母親が、市議会議員から都議会議員になり、マドンナ旋風ともてはやされているほど、平和賛美の気風が、世の中を覆っていた。バブル経済の影響から、戦後民主主義は正しかったという傲慢な民衆の風が、私達の教室にも吹き荒れていたというのが正しいのだろうか。

小学校の時、担任だった三国伸二先生といった。彼は、ジョンレノンを信奉する信念の無い左翼主義者で、君が代は謳わなくていいぞと切れ気味にみんなに言ったり、国際連合脱退の意思を示して、議会をあとにする松岡を、クラスの男子が格好いいと口にしたところ、軍人だぞとまたしても切れるといった状況だった。

30年前の学校教育なんて、こんな適当であったのだ。クラスの担任の好みで、生徒達の思想を強制することもできたし、しょっちゅう、子供相手にギターを弾いて格好つけている先生であったから、クラスの可愛い女子ほど、その周りに群がっていた。子供の頃にセクハラの被害を受けたと、今頃、訴える女性もいるけれど、あの時代の教育現場なんて、ホリエモンの言う通り、いくらでも代替えのきく、教育現場であったのは確かだ。

あえて先生の名前の記載した。これを読んでくれる人が多いとは思わないけど、どうなったか知りたいというのもあるから、もしかして、誰か、教えてくれたら嬉しい。これだけ心に残るというのは、それだけで大したものなのかもしれない。子供はハッキリ道を示してやった方が、嫌なら別の道をハッキリ進むことができるというものだ。

東京学芸大学を卒業しているほど学力があるのだから、日本が軍事をアメリカに頼っている傭兵思想についての是非を、大人になった今としては、聞いてみたかった。平和が正しいといっても、友達に喧嘩で負けること、言われたことに従うだけでも、苛々が募ってくる私としては、すべて嘘くさく感じていた。こんなにわがままな心を持った人が、沢山いる世の中は、きっと、戦争なんてすぐ起こるものじゃないかしらという疑問は、早くから生じていたと思う。

プロ野球観戦で騒ぐ人だって、スポーツに熱中する人だって、きっと、代理戦争のようなものだろう。平和とは、戦争と戦争の間の間奏曲だと、マキャベリが言う。その時代から変わらずにきて、この先は、核兵器まで、人類は手にしているのに、大丈夫だろうか?

人類はという誇大妄想的不安に陥る時は、三島由紀夫著『美しい星』を読むようにしている。

背表紙には「地球とは別の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚めた一家を中心に、核兵器を持った人類の滅亡をめぐる現代的な不安を、SF的技法を駆使してアレゴリカルに描き、大きな反響を呼んだ作品。」「著者の抱く人類への運命に関する洞察と痛烈な現代批判に充ちた異端の思想書」とある。

そう、紛れもなくこの本は思想書であった。天才であるが故に人類の行く末までも見通してしまっていたのかと僕は驚嘆してしまったのをよく覚えている。

なぜ人類が滅亡してしまうのか、三島が人類の滅亡を企む悪役の宇宙人羽黒に語らせている。「人類には三つの宿命的な病気というか、宿命的な欠陥がある。その一つは事物への関心であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは神への関心である。」この宿命的な病気=三つの関心のいずれのルートを取ってもそれは最終的には核ミサイルのボタンを押す結末になるという。

 著者はそれとは反対に人類を滅亡の危機から救おうとする宇宙人・重一郎に人類の5つの美徳を語らせている。「地球なる一枠歳に住める一種族ここに眠る。彼らは嘘をつきっぱなしについた。彼らは吉凶につけて花を飾った。彼らはよく小鳥を飼った。彼らは約束の時間にしばしば遅れた。そして彼らはよく笑った。ねがわくはとこしなえなる眠りの安らかならんことを」これらがなぜ美徳なのかということについては本書に譲る。

 そして著者は重一朗に次のように語らせている。「今、あなたと私との間を流れているこの時間は、紛れもない『人間の時』なのだ。破滅か救済かいずれへ向かっていようと、未来は鉄壁の彼方にあって、こちらにはすべてに手つかずの純潔な時がたゆとうている。」「未来の人間を滅ぼすことができても、どうして現在この瞬間の人間を滅ぼすことができようか。

あなた方が地上の全人類の肉体を滅ぼしても、滅亡前のこの人間の時は、永久に残るだろう。」ここでは既に三島思想の核心が語られているのではないだろうか。僕は未来への不安に心が慄(おのの)くときにいつもこの言葉を思い出すのである。

ミッドライフ・クライシス(中高年の危機)、自分は無価値だ!

ミッドライフ・クライシスという記事がyahoo newsで流れてきた。ヤフコメには、ミッドライフ・クライシスとか、第二の思春期なんて新しい言葉を作らなくても、昔から「更年期」と呼ばれているし、新しい言葉を使い始めると、過去の研究や情報を当たれなくなるので、マスコミは新たに売上が上がって喜ぶけれど、苦しんでいる人は得られる情報が減るので、言葉の再定義はほどほどにと書かれていた。

私は、更年期という言葉をつかう時、なんだか、つかうだけで衰えを感じ、やる気がしなくなる。ミッドライフ・クライシスと言うと、そうなんだとプラスの気分に転じられた。別段、悪い気がしない。以前、「近くのものを大切にできない人について」の記事で書かせていただいたが、意識によって人間は形づくられるものであって、失敗という言葉ではなく、部分的成功と言うことで前向きになれると書いた。↓
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新しい言葉だからこそ、マスコミが飛びつき、改めて、みんなが更年期を自覚する手がかりが出来るともいっていいし、ヤフコメ民には、示唆を与えられるコメントは多いけど、論理的帰結が弱いという欠点がある。私のブログが、そうであるかというとこころもとない。いまだに、他人の借り物言語で話している感じが抜けない。一生、物まねをし続けて死ぬだけなのか? 悲しくて涙が出てくる。これが、ミッドライフ・クライシスなのか。
エビデンスに溢れ、結論には、E=mc2という相対性理論のような単純かつ奥が深いというのは理想であるが、人生に一度だって、これだけの方程式をみつけることができたら幸いである。

これから先の人生を考えた時、仕事がうまくいかない時、なんとなくいつもなど、きっかけがなくても虚無感に襲われるという声も多く寄せられたとあって、世の中の半数ほどがあるそうだ。その中でも、人生の残りの時間が短くなっていくことに焦燥感を覚え、人生の停滞感を感じ、何をしてもワクワクしないという方が多いと、心理カウンセラーの下地まいこさんが話をしている。

それを払拭したいという焦りから、ギャンブルやお酒、不倫、突然の退職やリスクのある起業など、突発的な行動をとってしまう方も少なくない。そのような行動は、これまで築いてきた人生を崩壊させ、取返しのつかない事態になりかねない。私の上司も、49歳で突然会社を辞めて、居酒屋をなんの計画も立てずにはじめ、1年もたたずに潰してしまい、現在、借金とりから逃げて、沖縄に潜伏しているという。

ヤフコメでは、49歳が人生で最も苦しい年齢だと述べている。私は現在43歳であるけど、両親も高齢でいつお別れするかわからない状態だし、介護も明日から始まるかもしれない。ずっと仕事と自宅での読書等に追われてきたから、お金は生活に困らないぐらいは溜まっている。贅沢をすれば吹っ飛ぶだろうけど、物欲がほとんどなく、性欲と食欲、知識欲だけがあるといった感じで、高級ソープと週一のスシローがあれば、欲は一応満たされる。

しかし、昨今、異常なほど、人生の焦り、何もない自分が認められないという苛立ちが募っていた。SNSに触れていると、人生を損しているようだと思えたり、難しい本を読んでいたら逆に、こんなことをして、現実を忘れることの方が無意味に思えるようになったり、右往左往、左顧右眄してる。努力する限り迷うものなのだと言い聞かせても、フラストレーションは満たされないのだ。

でもこの心理カウンセラーの下地まいこも、ぼんくらではない。この停滞感を払拭するには、リスクのある行動ではなく、日常生活の中で無理なくできることから始めてみてはいかがでしょうか? と問いかける。これは、女性の発言で、三つ葉のクローバーに憧れた女子生徒といったニュアンスを出ないと指摘をする方もいるだろう。私もうさんくさいとは思う。でも、自分の人生を振り返ったり、少しでも興味のあることの情報収集や、リスクを抑えた副業など、そうした行動を起こしてみて、新しい自分と出会った時、ワクワク感や充実感につながるかもしれないと励ましてくれる。

ブログを毎日書くと決めたのも、ミッドライフ・クライシスを乗り越えるためと考えると、自分に向き合う気持ちが湧いてくるものですね。疾風怒濤の思春期を、ノートに日記を書きなぐり続けたように、私は、少しでも、みなさんに自分の気持ちを伝えて、日記ブログは受けないといわれるけど、クオリアを共感できるようにしていきたいと思う。

意識を理解した似非科学に騙される人達!私のこと。

朝起きて、また悪しきネットサーフィンが始まった。知りたい情報をずっと調べていられるから、はまってしまうのだろう。学校の授業は、つまらないことも、聴かなきゃならない苦痛というのがあって、でも、それによって我慢や辛抱するという人生にとって必要なことを学んだともいえるので、私は、堀江貴文の主張には、その点において反対である。もちろん、堀江貴文のようにクリエイティブな仕事につける方は、そのような人間でなければならない。しかし、みんなが起業できるほどの力があるわけでなく、適材適所ということで、一部のエリートを創造する教育であれば、HIUで行っていることは間違いではない。

茂木健一郎youtubeで、意識のことを問題にあげていた。人間の脳幹にチップを埋め込み、コンピューターに移せば、意識は永遠に生き続けて、不老不死も近いという言説に対して、真っ向から否定していた。ネイチャーに掲載されたその理論においても、意識を研究する学者23人から、似非科学であるという声があがるほど、無謀な理論であったらしい。それは、小保方さんのスタップ細胞であり、試験管で水だけで核融合反応を起こすことができることであり、そのような問題と同列ぐらいの内容で、あきれる話だということだ。↓

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茂木健一郎がいうところ、意識の問題を解明するには、今現在、すべての学問が意識にかかわっていて、その分野で最高の知識を必要としていて、なおかつ、それでもわからないというのが、人類の現在地であるという。アインシュタインニュートンに匹敵するか、その2人を足してもいいぐらいの功績になる、ノーベル賞30個でも足りないぐらいというから、大変なことなのだろう。以前、私の記事で、川上量生が意識は実装できると豪語したことを、取り上げている。↓
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面白いこともいうものだ。釈尊の悟りの境地に達するまでは、25の段階があって、今は、10ぐらいじゃないか。そして、意識を取り上げた研究は、永遠に続く青天井だということだ。

私は、何故、意識について、これほどまでに、しつこく考えるのだろう。このブログの題名nyoraikunも大日如来から採用した。ブログのアドレスも、https://www.大日如来参上.com/というのも、曼荼羅の中央に位する大日如来からとったものだ。人間を大本で多くの手をあげて理解を示す仏、瀬戸内寂聴の人間曼荼羅というのもあったが、人間の心のありよう、意識のありようについて、永遠不可知の人間性に対して、答えをだそうとする努力が、私の人生の定義となりうるものだと、意識せずに認めていたことだろう。

茂木健一郎に、そう言われて、私は、視界が開けるような気がして、今日の朝は、気分が良い。
電車のガタンゴトンという音を、数字で表せないと思いついたところから、彼は、クオリアをひらめいたようだ。赤は赤であるという、この赤にまつわる感覚、月の裏に一角獣がいると聞いた時の、意識の志向性というものがなんであるのか。グラビアで惹かれる女性はなんたるか。先日、私がブログで書いた、自宅近くのツツジの花から、万葉集の死者を弔う詩にまで意識が旅をする不思議が何であるか。→
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動画では、プルーストの『失われた時を求めて』の話が、紅茶に角砂糖を一つ入れてマドレーヌを口にしたところから、過去の思い出が意識され、その一つ一つに、記憶がからんでくる。

幸福になるには、何かを得ることでなく、自分の中にある記憶を探ってみてはいかがだろうかというくだりは面白い。私もクオリア言語化しようと、無限に続く階段を上っていく。それは、また、みなさんも――

贅沢は可能か? バーベキューにて思う!

スーパーで働いていると、この時期、バーベキューにつかう商品を買いにくるお客が多い。正月、節分、雛祭り、子供の日、母の日、ゴールデンウィーク、土用丑の日と、催事があると、それに関わる商品がとびきり売れる。私の育った環境だと、幼い頃、クリスマスになるとご馳走がでるし、プレゼントが貰えて贅沢ができるから、楽しみにしていたけど、中学に入る頃から、イベントだから何かあるということがなくなった。

クリスマスにチキンとケーキを食べ、正月におせち料理を召し上がるということぐらいはしているけれど、ほぼ一年中、日常生活の連続だけで過ぎていく感じだ。少し生活レベルが上がると、少しの間、楽しくて幸せになるけれど、簡単に慣れてしまう。当たり前になっていくことで、さらに上の生活レベルでなければ、幸福感が湧いてこなくなる。この理屈で、日常生活の連続であると感じているだけかもしれない。

古き良き思い出ほど、幸福感に溢れているのは、そのためだろう。エロ本を初めてみたのは、竹藪を切り裂いてつくった秘密基地なるものに、ゴミ同然の落とし物を持っていくことを、友人と手分けをして初めて、ふと週刊誌が開いて落ちているのを目にした時に、1ページのうちに、女性のヌード写真が8人ぐらい載っていったのである。最初は、見るたびに、刹那、快感が脳裏に走る。悪いものを見たと思って、目をそらした。また、自分の目にうつしてみせると、今度は、身体に快感が走る。これは癖になりそうだと、不安になり、それを手にして、秘密基地に持っていくのをやめにした。

この女性のヌードに触れた最初の記憶が、忘れられないほど、快感を伴って、いまだに思い出される。もうあの快楽に達することはないかもしれない。初めて、女性のヌードを生で見て、興奮したのは、小学校5年生の時に、体育の授業の着替えを、男女同じに行うのだが、振り返ると、好きだった女性が、裸でいた。胸が膨らんでいて、それを彼女自身も不思議に思うのか、周囲に見せて笑っていた。無邪気なものであり、近くの男子が、やめた方がいいよと注意していたけれど、彼も、私と同じく興奮していたのだろう。

男女は、変わらないと信じていたのに、宮沢賢治著の銀河鉄道の夜におけるジョバンニとカンパネルラのように分かれていく、悲しい体験でもあった。自分は、彼女とは違う、彼女は、他人なのだと……。

バーベキューを目的に、天然むきえび、赤海老、ほたて貝、肉各種を大量に買っていく客。それも、信じられないぐらい品質にこだわりがあって、安いだけでは全然ダメで、美味しいというのが大前提だ。私はいつも食べることにおいて安物に慣れていたことは悪くないかもしれない。舌を贅沢にした方が、商売をする上では絶対条件であるけれど、あらゆる贅沢になれてしまうと、かえって生活が苦しくなるということも考えられる。
スポーツカーを2台持っている社員もいて、稼いだお金を、理想とする生活に捧げるのだろう。私は、小説家になりたかったから、内的世界をいかに言語化できるかのためにしか価値がないから、本ばかり増えてきたけれど、何度書いても、同じ知的世界に過ぎない。作家は処女作にむけて成熟するというのは、みんな、自分の視野の限界を世界の限界だと思っているだけなのかもしれないけど、私には、20年もこんなことをし続けて、限界を感じている。

柳井正の『経営者になるためのノート』を読んでいて、上述したことを商売に活かす言葉が、著述されていた。
――お客様は厳しい。
なぜ質の基準にこだわるのでしょうか。
それは、やはり「お客様は厳しい」からです。
自分の身に置き換えて考えてみると、すぐに分かることだと思いますが、お客様というのは、一度あるものを手にしたり、体験をしたら、そこが基準になります。
そして次からは、その基準でものを見ていきます。
さらには、その基準ではものたりなくなっていって、より高い基準のものを求めるようになります。そして、それを満たすものに出会うと、乗り換えていきます。
このようにして、お客様の方の基準がどんどんあがっていくのです。

商売は心理学だという。経営者ノートを読んでいると、心理学の本を読んでいるようだ。

ツツジをググると万葉集の魂に触れ、キンモクセイは、職場の加齢臭問題にゆきつく不思議!

ウクライナが、また米国からの追加支援をもらい戦争を継続するらしい。負けるわけにもいかないし、勝たせるわけにもいかないという支援の仕方が、支援というのか疑問である。西側諸国とロシアの間に、ウクライナがあることの方が、クッションになっていていいというのもあったのだろうけど、戦争になったのだから困ったというのが実情なのだろう。

能登半島地震の復興支援へ1389億円の税金がかかるということ、ガザの病院敷地内から200人の遺体が出てきたということ、米利下げは市場暴落シグナル「ブラックスワン」ファンドが指摘、不倫で大問題だった広末涼子が爽やか最新ショットで復活をアピールしていることが、本日のyahoo newsの話題である。

色々と、このご時世の話題を書き殴ってみたが、私には、あらゆるものの値段が高くなっていく現状に辟易しているぐらいで、日常は何も変わらない。遠い世界の人を考えても、日々の仕事における役割を守って、週に一度美味しいものを食べてを繰り返して生きていくだけで精一杯である。

自宅前の太陽を求めてピンと張った活きのいい葉を目にした。日々、鮮魚を目にして働いているが、神の創造した葉一つにも、偉大な神の働きを感じる。この葉に惹かれ、私は、すぐさま、yahoo知恵袋に質問をした。隣の生垣に目を移すと、白い炎のようにふわっと意味ありげに存在している花がある。これも、写真を撮り、同じく質問をした。

花の名称の答えはすぐにでた。つつじである。地下から根を通じて養分を吸って自発的に呼吸をして、これだけ精巧な花を咲かせている。つつじが丘駅が京王線にあるけれど、駅から見える光景は、東京郊外でひかえめだけど華やかな印象をもっていた。花言葉が、慎み、節度、節制、自制心、努力というもので、どこかおしとやかな印象がある花の名前にあった街づくりをしてきた思いが、私の心の琴線に触れるのかもしれぬ。

風早(かぜはや)の美保(みほ)の浦廻(うらみ)の白(しら)つつじ見れどもさぶし亡(な)き人思へば
訳(風早の美保の浦の白つつじを見ても楽しめないことだなあ。亡くなった人を思うと…)

この詩が出来た経緯↓
姫島の松原で行き倒れになっていた娘子に「風早の美保の浦の白つつじを見ても楽しめないことだなあ。亡くなった人を思うと…」と詠い掛けて、その死を悲しみ悼んだ挽歌となっています。
万葉の時代、死は穢れであり死者のいる場所にはその怨念が居ついて人々に災いを為すと信じられていました。
それゆえに、このように旅の途上で行き倒れの死者に出会った時には、自らに災いが振り掛からないようにかならずその死者の魂をなぐさめる挽歌を奉げてから通りました。
この歌が風早の美保の浦で詠まれたものであるのなら、よく似た景色の中で姫島の松原の死者の無念を思い出してふたたび鎮魂の歌を奉げたといったところでしょうか。

姫島の松原とされた場所↓

万葉集の時代には、死者には怨念がとりついていて人々に災いをもたらすと信じられていたというから、やはりわからないものを恐れる心理は、我々現代にも通底していて、死の側から今をみることができれば、きっと世界中の人達が戦争のは馬鹿らしいと理解できるはずなのに、知るよしもない。この詩を音読してみると、昔の人は、言葉を今の数倍も大切に扱っているなぁと感心する。言霊があるなぁと思う。私はブログで沢山書きなぐってきたけど、魂はあっただろうかと自問自答せざるをえない。

不思議だなぁ。自宅前にツツジを目にしたところから、ググり続けると、万葉の頃に生きていた人の魂に触れることになるなんて……。魂はあるかないか? あるに決まっているじゃないか! ツツジを見て、愛をささやいたこともあっただろうし、私が幼い頃に、おさなじみとツツジの花にとまる蝶々をつかまえるために遊んだことがあった。その女性とは、29歳の時に、私が一方的にハガキを送りつけ、デートにこぎつけて、結果、お付き合いすることにまで発展したのに、別れてしまった。理由は、私の一方的なわがままによる。

葉の名称を質問していて、たった今、回答がきた。キンモクセイである。9月~10月にオレンジ色の花をつけるそうだ。樹高が5~6メートルで、花の香りが名高いそうだ。秋の代表的な植物のひとつらしく、造園業の人が、マンションの前に植える木として、秋の訪れを感じさせるこの木を選んだのだろう。会議で話している人がいたのだろう。その気持ちに気づかずにいた。近くにあるものでも、配慮に気づかない人間の浅ましさが、私にも多分にある。もっと勉強して、人よりも多くの心を知ることができるようになりたい。しかし、職場の人達は、現場労働者なので、基本的に無学である。より浅ましい人達に見えてきて、話が合わなくなるのではないかと不安になった。

キンモクセイは、低血圧の改善、不眠症、健胃作用、口臭を予防が期待できるそうだ。身近な医学もここにある。キンモクセイの橙色の濃い花は香りが強く、行きは秋の香りを胸一杯に吸い込んで1日頑張り、帰りはほのかに漂う甘い香りに癒されてみてはいかがですかと、日本薬学会が進めている。職場に、腋臭の人、加齢臭の人もいる。普遍的人間性を頼りに、より良い社会をすすめていくことが、ダイバーシティなのか疑問はつきないけれど、私が、多数派であることを祈って、秋口になったら、キンモクセイの花の芳香を、心おきなく胸一杯に吸い込んでやろうと思う。

月を見つけて、焼肉味ん味んで食べてわかること!

仕事を終えて、夜空を見上げると、お月さまが煌々と輝いていた。何度見たのかわからないほど、見慣れた光景である。すぐ頭に浮かんだのは、数年前に骨折をして、仕事もできず、夜中に、自宅近くを散歩していた時に、夜空を見上げると、同じく、満月であった。以前は、ピッカピカの満月、今日は、おぼろな満月である。骨折していた頃の月と比べると、今日は、五体満足で、身体も別段悪いところがないから、幸福感が湧いてくる。

焼肉味ん味んという焼肉屋が、八王子の各地にある。注文すると、どれもボリュームがあって、肉質も値段の割にまぁまぁいい。ホルモン系が売りの店だったというのもあって、牛ホルモンは実にうまい。プロ野球のない毎週月曜日は、休みの前日というのもあって、外食で、我ながらプチ贅沢なるものをしてきた。この頃は、スシローばかりになっていたけど、今日は、久しぶりに、焼肉にした。体重計にのると、この頃、基準体重より、2kgほど少ないから、肉を食べて、少し太ろうと考えた。

隣には、4人家族で、30代に入るか入らないかぐらいの女性と赤ちゃん、50歳ぐらいの男性、高校生ぐらいの男性が1人であった。父親が再婚したということだろうか。高校生ぐらいの男性が、どこか浮いているようで、1人邪魔になっている気がするのかもしれぬ。挙動が少し不審である。女性は、目を大きくして、彼と応対している。ちょっと困っているといった感じだ。その一家?が帰る時、女性が、抱いている赤ちゃんに、元気かなと、赤ちゃん言葉で問いかけている。赤ちゃんは、顔が笑顔になっているようにも見えた。この頃から、愛情を注いで育てているものなのだと今さらながら驚く。私の記憶の無い中で、愛情豊かに接してくれたのだろうということが、頭に浮かんでくるような気がする。

それも、数年前に見上げた満月や、今宵見たおぼろ月夜のように、いつもあるようでなく、いつもないようであるものに思えるからだろう。その後に、隣の席に入ってきたグループは、40代ぐらいの無理に若作りした男女と、職場の同僚だろうか、きちっと背広で決めた爽やかで顔をした普通の男性である。どうやらカップルではないらしい。話し方に距離があるし、メニュー表を、女性が手にして、勝手に注文する勢いだ。あまり仲が良さそうに見えなかったけれど、注文もスムーズにまとまり、手慣れた印象を受ける。職場の同僚だろうか? と思い浮かぶのは、仏頂面でありながら連携がとれているなあという感想からくるものである。

焼肉が焼きあがるたびに、特性ダレにつけて、口に流し込む。脂が多いほどではないが、ぷりぷりして厚みのある身肉がたまらない。噛むとじゅわぁっと旨味が、口もとに拡がっていく。いつも、混雑している店内も、空席がちらほらだ。外食でも、雨が降ると客数減になるのは変わらない。来週の月曜日は、果たして何を食べにいけばいい!

フードワンでオペラ歌手の生き様に出会う!桜の花びらのように!

毎日、ブログを書くことを自分に課していたが、自分の経験を書かないといけないと思うようになった。知識なんて、どこにでも書かれているものだから、行動により得た何かを伝えること、その内容に価値を感じてもらわねば、ツイッターのリプライ機能の方が、数倍面白いことになる。日記ブログではダメだというけれど、実感が常識を突き破るぐらいのものになれば、大切な時間を割いて、目を通してくれている方へのご恩返しになると考えることにした。

今日、仕事終わりに、フードワンのスーパーマーケットに立ち寄ることにした。自動車のフロントガラスに、桜の花びらが1枚とまった。薄紅色が綺麗で、内側が濃くて、外側にいくほど薄くなっている。レンゲショウマの花びらに薄紅をひいたように儚い。青梅の桜並木で、1枚の花びらを、見つめていた老婆は、今頃、天国にいるだろうけど、その魂は、どこにいったのかと脳裏にひらめく。この記憶は、いったいどこからきて、どこにいくのだろう。

何度も美しさを写真におさめようとしたけど、花びらを感知しないのか、鮮明になるのは、向かい側になる自動車と、スーパーの文字ばかりだ。三島由紀夫の『鏡子の家』に書かれていた、童貞の画家が、精神が危機的になり、ニヒリズムの沼に落ち込みそうになった時、救いだしてくれたのは、1本の水仙の花であった。その描写が浮かんできて、無性に読みたくなった。

すべてが虚無に属する物事は、ああも思われこうも思われるという、心象のたよりなさによって世界が動揺する、その只中に現われるものではないだろうか。僕の目が水仙を見、これが疑いもなく一茎の水仙であり、見る僕と見られる水仙とが、堅固な一つの世界に属していると感じられる、これこそ現実の特徴ではないだろうか。するとこの水仙の花は、正しく現実の花なのではないか。
 そう考えた僕は、一瞬言おうようない気味のわるさにかられて、花を寝床の上に放り出そうとしたぐらいだ。僕にはその花が急に生きているように感じられたのである。

夕食を買いに、フードワンに入る。海鮮丼を買ってみた。夕方作り立てということで、鮮度がとてもいい。美味しかった。キリンビールを売るのに、今田美桜の等身大のパネル。これも桜のように美しい。

そして、極めつけは、ビーフシャリアビンステーキである。これは、美味しい。身がやわらかく、玉ねぎとトウモロコシが、甘味を香ばしくする。

wikipedia シャリアビンステーキとは↓
当時歯痛もしくは入れ歯の不具合に悩まされていたシャリアピンの、柔らかいステーキが食べたいという要望に応えて、帝国ホテル「ニューグリル」の料理長だった筒井福夫により考案された[1]。
肉を柔らかくするためによく叩いて薄くした牛肉をタマネギのみじん切りに漬け込む料理法が特徴である。タマネギに含まれるタンパク質分解酵素の作用で肉が柔らかくなるとされている。筒井はタマネギを使用する調理法の発想を、すき焼きから得たという説もある[3]。

スーパーで買い物するだけで、これだけの感動があった。今日のわかったブログというのが、一時期流行っていたけれど、本日も、たった数分だけでも、これだけのわかったが、世の中にあることがわかった。明日は、どんな感動と、どんなわかったがあるだろう。It Gets Better(イット・ゲッツ・ベター)

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阪神タイガース・プロ野球・スポーツ