nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

お問い合わせフォームはこちら

映画オッペンハイマー 世紀の物理学者の内面に、映像で迫る試みが、初めて成功した作品だ! 

15禁であるのは、ラブシーンが2度出てくる。これが、実に刺激的であるがゆえに、そのような年齢制限になったのだろう。もし、それがなければ、子供連れで観に行くとか、高校の映画鑑賞で使用するとか、視聴者の裾野は広がっただろうけど、オッペンハイマーの人間に、真に迫るものとしては、なくてはならないのだろう。

歴史に名をのこす人物は、人並みの人生をすべて犠牲にしなくてはならないとヒトラーは口にした。ナチス設立の時期から、共に長く政治携わってきた宣伝相ゲッペルスは、映画女優との結婚を切にのぞみ、妻と離婚し、政治の舞台から去って、女優と再婚したいと願い出たが、ヒットラーは、歴史に名をのこすものは、人並みな幸せのすべてを犠牲に供しなければならないと肯んじなかった。オッペンハイマーの女性との関係のどれもが、核開発に携わる中で、修復の難しいものとなっていく。

識者においては、オッペンハイマーの苦悩を描いているだけで、原子爆弾を落とされた広島・長崎の人々、核実験で被爆した人々、ロスアラモスから追い出された先住民等、多くの被害者がいるのに、そのことへの言及がないという声もある。また、核開発には、女性研究者も多く携わっているのに、モブ的に位置づけで、現代のジェンダー問題をおろそかにしているという声もある。これは、様々の立場から、好き勝手なコメントを出せば、さもありなんというだけの話で、私としては、この映画は、反戦というより、原子爆弾を製造する総責任者である彼の物語であって、もし被害者だ、ジェンダーだと取り込めば、ただでさえ、会話が続く物語の中で、テーマがなんであるのか、チンプンカンプンになるに決まっている。テーマ1つに絞って、3時間、天才物理学者の苦悩に、映像を通して本気で迫る試みが、この作品における表現を芸術に域にまで高めているのである。

原子爆弾の名前を、広島では、リトルボーイ、長崎では、ファットマンと、男性として扱うところが、支配できるものとして連想されるのは、フロイトの潜在意識の分析における夢判断をまたずともわかる話である。やはり、アメリカは、超人的な何かをもつものを、ちやほやする国、大切に扱う国であるというのが、伝わってくる。共産主義を探しだす赤狩りで、オッペンハイマー自身も、散々疑われてしまうほどである。原子爆弾の次は、水爆を開発しようという案に、彼は、世界平和を訴えかけて、その開発に疑問を投げかけてしまったというのが、疑われた理由である。

彼は、開発することで、ロシアも同じ水爆を開発し、そのいたちごっこにより、世界は取返しのつかない事態になると警鐘している。私がアメリカ人であれば、彼の意見には反対だ。先につくることで抑止力になり、政治を有利にすすめられるのは、歴史が証明している。そして、人類の英知に対する彼の自惚れであって、のんべんだらりとしているうちに、すぐ他国が、水爆を開発しているものなのだ。認識は、人間の野原であり、海であり、一般存在の様態に過ぎないから、彼が脳裏に浮かぶ数式でさえも、多くの書物は人々との出会いによってもたらされているに過ぎないのである。現在は、スマホをあることで、超情報化社会となっているから、自社にしかない極秘な知恵等、よっぽどのことがない限り、オープンにしても、他の情報を、トラやライオンが、獲物に貪欲に食いつくぐらいに求めていくことの方が、往々にして大切なことなのだ。

映像の手法では、既存映画と一線を画する映像手法が用いられている。オッペンハイマーの視点がカラーで描かれ、戦後も核開発推進論者で、世俗的な権力を奪取することに燃える俗物、アメリ原子力委員会の委員長ルイス・ストローズの視点がカラーで描けている。これ以上の核開発に警鐘をならし、原爆の父と影響力絶大のオッペンハイマーのことを、うとましく考えているストローズは、彼を失墜させるために、様々な権謀術数にかけようとする。それにより、オッペンハイマーの核を創り出した男としての苦悩が、対照的にはっきりと浮き上がるように描かれているのだ。

原子爆弾が広島で威力を発揮したとき、足を踏み鳴らし歓迎一色の人達に、彼は向かい入れられた。彼は話ながら、それを聴く聴衆が、原爆の被害者のように、目に写ってくる。顔の皮膚が火傷でただれていく姿、一瞬で目の前の人がいなくなる様子、歩いて何かをふみつけてあと思って下を向くと、黒焦げになった幼子の死体であること、飲み過ぎたためにゲロをはいている男性すらも、原爆の被害者を連想させるものとしてみえてくる。

ストローズは、政治の閣僚に入れずに敗れ、その悔しさを、アインシュタインが、科学者にたきつけたために、原子力開発の反対票にいれる者が出てきたのだと癇癪を起す。最初の頃の場面に戻り、アインシュタインオッペンハイマーの会話の内容が、クライマックスであきらかになる。アインシュタインは、もう量子論がわからない私には、なにもないが、君も名誉をさずけられる時がくるだろう。次の時の人は君だけど、その時、注意しなければならない。それは、すべて彼らのためになるから寄ってきているだけで、決して君自身ではないと忠告する。オッペンハイマーは、核爆弾は、火が空気について全世界を覆っていく可能性について話したけど、それは本当ですよ。地球は私達が破壊したのだからと、つぶやいたところで、核の炎が、世界を覆っていくところでエンドロールとなる。

オッペンハイマーの驚いたところは、読書家で、理論物理学だからそれだけ考えているだけでなく、マルクスの『資本論』を3冊読んでいたり、インドの聖典「バガバッド・ギータ」の言葉を、世界初の原爆が1945年7月16日に爆発したのを目の当たりにして、「我は死なり、世界の破壊者なり」という言葉を思い出したそうだ。私は、こう返そう。
「我は生なり、世界の創造者なり」。この言葉は、結果的に同じことを述べているに過ぎない!

にほんブログ村 ライフスタイルブログ こころの風景へ
にほんブログ村
カテゴリ
阪神タイガース・プロ野球・スポーツ