nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

お問い合わせフォームはこちら

近くのものを大切にできない人について、心理学と仏教の見解!

近くのものを大切にできない人は、他の仕事についても、周りに価値を感じずに務まらない人が多い。悪口を言う人は、どこに行っても悪口をいうようなもので、その人のものの見方というのは、変わらない場合がほとんどなのだろうか?
職場で、仕事の遂行能力はあるが、いつも周囲のものごとに不満を抱えている女性パートがいる。人気のない職種であるから、いつも人員不足で、多少のことは目をつぶって、遠慮しながら、気をつかってあげて、いつも仕事をこなしてくれてはいる。

しかし、新人のパートが入ると、すぐ不満をぶつけるようになり、やめてしまう。その欠点を補うほど、働きはするから、致し方ないということにはなるけれど、本当は、こんなに不人気な仕事をしなくても良かったのではないかと思えてくる。他の部署に手伝いに行きたがる様子は、子供のようだ。子供は、欲しがっていたオモチャを買い与えられると、しばらく遊んでいると飽きて、ごみ箱のように無造作に放置するようになる。これは、自然に任せると、そうなるもので、子供の時分では、あれほど欲しがっていたものが、手に入ると、何故、こう無価値なものに見えてくるのかと自問自答するようになる。

ここに意識の働きの初歩的な見解が得られるのではないか。近くにあるものほど、粗も見えて、価値のないものに見えてくるのは自然の流れである。この無意識の欲求であるエスを、自我が対応していくこと、簡単に言えば、この自然の流れに、意識が対処し、皆に受け入れられる考え、社会性を伴った内容にしていくものに変えていく作業をしなければいけない。意識の働きよりも、自然の流れを優先する選択を、無意識的、意識的に行ってきたがために、現在の彼女ができてしまったのかもしれない。

素直な気持ちで生きていきなさいという教育を受けていると、素直な気持ちの解釈を単純に受け取ると、心の底から湧いてくる欲求であるイド=エスであると勘違いしてしまう。イドとは無意識の領域であり、自覚されていない過去の経験や、「~がしたい」「~が欲しい」といったさまざまな欲求などが無秩序に存在している。人が持つ欲求の中には、依存欲求や承認欲求に加えて、相手をコントロールしたい、自由でありたい、攻撃したいなど、さまざまな欲求が存在している。イドは、「快感原則」に従って機能しているため、すぐさま欲求を満たすことを優先し、不快なものを避けようとする。また、本能的なエネルギー(リビドー)を蓄える貯蔵庫にもなっており、本能的なエネルギーを放出して快感を得ている。まさに、近くのものを大切にしないというのは、このイドに従っているのである。

超自我とは、幼少期に受けた両親のしつけが、こころの中に取り入れられてできた領域のことを指し、イドや自我の見張り役ということだから、恐らく、彼女の両親のいずれかが、性善説をかたくなに信じていて、人間は皆、心に清らかなものをもっているから、素直な心で生きることが大切だいう名目でしつけた可能性がある。これが、上記の身近なものを大切にしないというエラーにつながっているといえるだろう。このように形成された超自我によって、「~してはいけない」といった道徳的な考えから善悪を判断したり、理想的な自分になれるように「~すべきである」と考えて行動に移したりすることができる。

自我とは意識の領域のことをさし、日々自覚している「私」の部分のことだ。「私は~という人です」と表現できる自己意識の部分や、アイデンティティと称される部分ともいえます。自我は「現実原則」に従って機能しており、「イド」や「超自我」の調整役となって、内的なこころのバランスを保っている。それに加えて、状況を把握しながら判断を下し、社会に適応していくための機能も担っていると考えると合点がいく。

上述した、近くのものを大切にしない彼女は、幼い頃、人間は生まれながらにして清く美しい心を持っていると信じている両親から、自分の心に素直に生きなさいと育てられ、超自我が形成された。身の回りが価値ないものに見えてくるエスに対して、これではいけないと対応する自我が機能せず、その点において、エスを優先させる事態がおこる。よって、自我とエスの葛藤の末に、自我の機能拡張されないで、50歳に及ぶということである。これは、手遅れであるので、この特性を理解した上で、部門運営に活かしていく以外にないということだろう。

仏教は唯識である。この説は難解であり、いまだに私は答えがだせない。しかし、目に映るこの街で生きていかなければならない困難さは、いつの時代もあったのだということがありありとわかる話で、釈尊は、それを誇大にして、相手に質問を重ねる。あらゆるものを受け入れていくことしかないという人間の無力感と、人間は考える一本の葦であるという哲学的凄みが、今から2000年以上も前の仏教の経典に書かれているのだから、いつの時代も、人の心は変わらないものだ。

その説話とは、さぁ、行け! 汝がめざすスナ―パランタへである。↓

釈尊祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に滞在していたときのことです。

弟子の一人であるプンナ(富楼那)が訪ねてきました。プンナはスナーパランタという地方で教えを広めることを決意し、釈尊に別れを告げるために来たのでした。

釈尊はプンナへ最後の教えを説いた後に、こう問い掛けました。

「プンナよ、スナーパランタの人々は気性が激しく荒々しいといわれている。もし、かの地の人々に辱められ罵(ののし)られたら、おまえはどうするのか?」

「世尊よ、辱められ罵られたら私はこう思うことにいたしましょう。〈スナーパランタの人々は賢くて、とてもよい人たちだ。私を罵っても、石を投げつけることはしなかった〉と」

「プンナよ、彼らが石を投げつけてきたらどうするつもりか?」

「そのときは、こう思うことにいたしましょう。〈石を投げつけられても、彼らは刀で切りつけたり、棒で殴りかかってきたりはしなかった〉と」

「もし、彼らが刀や棒で危害を加えてきたらどうするつもりか?」

「刀で切りつけられ棒で殴られても、彼らは私を殺しはしなかったと思うことにいたしましょう」

「では、殺されたならば……?」

「世尊よ、私が殺されたならば、こう思うことにいたしましょう。〈かのスナーパランタの人々は賢くて、とてもよい人たちだ。朽ち果てた私の身体と生命を奪い、解脱させてくれた〉と」

「よろしい、プンナよ。おまえはよく耐え忍ぶ心を身につけた。そのような覚悟であるならば、スナーパランタでの布教にも耐えることができるであろう」

そして、釈尊はこう続けました。

「さあ、行け、プンナよ、スナーパランタへ。多くの人に如来の道を説き、そして人々を安らかで平和な境地に導くために」
(『雑阿含経』より)

坂根千里が、スナック水中にかける!一橋大学社会学部を卒業してまで!

コロナ禍で、廃業や倒産をよぎなくされたスナックやバーの事例は多すぎるため、数値で何件とでるだけで、実に残酷なものだと感じていた。中小企業の会社に勤めていたとき、近くのバーのママが、会社にパートできていて、会社のものを盗んだことで首になり、数ヶ月後に飛び降り自殺をしたことがあった。実に、愛想のいいひとで、今思えば、彼女の表情に世間ずれによる疲労を読み取ることもできる。

盗んでいることが、防犯カメラにしっかりと写っていて、店長が彼女を掴まえた。言い訳はすることなく、後日、返金すると、すべて正直に話したそうだ。彼女が死んだと知った時、もうこの世の中にはいないということはなんとなくわかったが、また、どこかで彼女に似た人が現れるにちがいないと変な気持ちになったことがある。

今回、ご紹介するのは、東大の経済学部と言われる一橋大学を卒業して、なんと、斜陽といわれるスナックで、100店舗拡大を目論むという話なのだ。下記の写真を見ていただくと、色気はあるものの特別に綺麗というわけではない。枕営業に応じるのか? というエロ親父にとって感興は湧きそうな奥深さがある。才知というもの、下心を理解してくれる安心感とでもいうのか、微笑みには、何か意味深なものがある。手を握っても、適度にあしらってくれる安心感だ。

坂根千里さんが、成功していると言われているスナックは、東京都国立市の谷保近くにある「スナック水中」である。写真をみても、ニット系のボディラインがあらわな黒い服をきて、男性に満面の卑屈な笑みで酒を渡している。スナックの儲けは、なんだかんだいって場所代が含まれて、値段が高くついていて、あまり健全な環境ではないのだが、週刊誌で紹介される時には、たくみな印象操作が働き、清楚な雰囲気すら帯びるからいただけない。グラスを渡される時に、男が手を添えたら、どんな顔をするのか?なんて考えるだけで、私も立派にエロい。

実は彼女は、大学時代に遊び人で、結構な体験人数ではないかと予想する。本人に回答をいただけたら嬉しいが、こんなブログに書き込むほど、暇ではないのだろうな。こんなHなコメントを残している。

「衝撃でしたね。初対面のお客さんがいきなり会話に割り込んできたり、デュエットを誘ってきたり。離婚話を替え歌にして歌っている人もいました。これまで経験したことがない空間に驚きもしたけど、一気に人との距離が縮まる体験に、なんだか心も軽くなる。最高だなって思えたんです。」

戸惑いつつも場に溶け込む坂根さんに興味を示すママから、その日のうちにバー「せつこ」でのアルバイトに誘われた。「まさか初めて入ったスナックで働くことになるとは思いもしませんでした。お店に立つと本当にいろいろな人に出会います。でもみなさん品のいい方ばかりで、せつこママにも守られて、イヤな思いはあまりしませんでした」

ここでいう、あまりイヤな思いはあまりしませんでしたということは、少しはあったということだろう。中年のストレスに侵されたエロ男に、酒が入ると、どんなことをするか想像がつくし、それを解放させることで、収益を発生させる店に、綺麗ごとはないだろう。

1年後、坂根さんは高齢のため引退するママから「店を継いでほしい」と相談された。葛藤の末、「自分が救われた場所を残したい」とバトンを受け継ぐことになった。

私の上司にも、居酒屋を1000万円の借金をして、事業を継承した男性がいる。酒と寿司のコラボで商売をしていたが、1年ももたずに潰れてしまった。借金とりから逃げるべく、沖縄にいるという噂である。もともとは、懇意にしていた居酒屋の主人から持ち掛けられた話であった。これは、詐欺じゃないかと直観したが、立地条件も悪く、集客に限りがあり、散々な目にあって、倒産である。金が絡んでくることは、誰も信頼できない。人は、たった数万円でも、人格すら変えてみせることがある。お金は、人を変えるのだ。女は金で買えると、ホリエモンが言っていたけど、そんな姿を沢山見てきたのだろう。

しかし、坂根千里は、改装し、2年で売上は1.6倍にしたそうだ。さすが、一橋の頭脳だ。お金になるのは、なんらかの知能なのだ。半地下に沈み、場に漂い、明日へ向かって再浮上するという思いをこめて、「スナック水中」と名づけたそうだ。えっと思ったけど、看板が実にしゃれている。このイメージから、名前が浮かんだというのが、出色なところだろう。

「女性ひとりでも入りやすいようい、店内の様子が見えるガラス扉にしました。焼酎水割りしかなかったメニューは、地元のクラフトビールやジンを取り揃え、スタッフには男性も採用しています」
スナック水中はバーのような瀟洒な店内で、若い世代も入りやすい。ママを中心に常連客も新規客も会話が弾む。

この女性客に目をつけたところが、逆説的で素晴らしい。スナックというありふれた業態が、一気にブルーオーシャンに見えてくる。しかし、昨年11月から彼女は産休に入ったそうで、裏方に回っているそうだ。新店舗もオープンさせ、ママを2交代制にして、チェーンストア展開も視野に入れているという。スナックはファンビジネスの側面もあり不安だそうだ。

実に多店舗展開は危険であるけど、一橋と聞くと、成功しそうな気もする。実際、行ってみようかと思うけれど、ママがいないので今はやめておこうかとも思う。妊娠して産休とは、随分とノンキであるけれど、それも、ファンをつける要因なのかもしれないし、ロスジェネ世代の無理をする働き方が当たり前の間隔は過去のものとして、現在を見ていかないといけないのかもしれない。

水中にいて酒に酔ったようなふらふらした文章になってしまった。坂根千里に会える日を楽しみに!

スーパーマーケット業界における出世とは?

就職氷河期世代に生まれて、就職した者は、バブルに大量入社した上の世代が多く、頑張ってもなかなか出世しにくいものがある。バブル入社組は、売り手市場であったから、ロストジェネレーションの就職氷河期世代に比べて、能力が低い傾向がある。そのため、出世の妨げになり、ただ多くいるだけのバブル入社組のことを内心馬鹿にする。バブル入社組は、ロスジェネ世代の態度に苛立ちを覚える。

これでは生産性が上がらないのも無理はない。スーパーに勤めているが、バブル崩壊後に、伸びてきた企業は、その影響を受けていない場合が多いのは納得である。新卒である企業に就職して、思い描く、サラリーマンライフがあると思う。しかし、ロスジェネ世代は、いくら頑張っても、出世が3年、5年、10年と遅れてしまうものだ。そうこうしているうちに、チーフや副店長クラスなら、もっと若い連中にやらせたらいいのにという会社からの目を感じ、ひねくれることも少なくない。

ロスジェネ世代は、仕事をめぐっての競争率が高く、本来、この会社にいないぐらい優秀な人が、入社してきていることがある。そして、会社のニーズに合っていたり、上司からのひきがあったりして、上に世代の厚い層を押しのけてまで、出世する人が数人は出てくるものだ。それと比較して、まだ現場で魚を切っていたり、肉を陳列していたり、コロッケを揚げていたり、レジ打ちをしていたりするからといって悲観してはいけないのだ。

ただこのジェネレーションギャップが強く出てしまう会社は、悪いシナジーが形成され、生産性が上がらない。事業の成果が頭打ちになってしまうものだ。解消をする方法は何があるのかといっても、大胆なリストラを敢行する会社もあったが、ほとんどうまくいっていない。そのために、社内で対策部を置いて、頑張ってみたけれど、なかなかうまく回らないというのが実情である。

安倍首相も、この問題に取り組んでみたけれど、憲法で保障された信教の自由という宗教の問題と、このロストジェネレーションの問題は、手の出しようがなく、対策をしている体裁をとっているだけであった。この2つの問題から連想できることはないだろうか? そう、あの山上徹也容疑者である。この覆い隠された、臭いものに蓋をしたところから、この暗闇から、飛んできた銃弾が安部晋三を打ち抜いたのである。

彼だって、そもそも犯罪者に身を落とすタイプではない。自作の拳銃が部屋からいくつも出てきて、中には、連射式のピストルをつくっていたという話だ。また、人気のない山林で、何度も射撃の練習を重ねて、失敗のないように訓練をしていた。どこを目印に打つと、間違いなく相手にヒットさせることができるかを、確信をもてるまで試行錯誤を繰り返したそうだ。頭で思い描いてシュミレーションして、実際に結果を出すということ。

元々は、統一教会の幹部を、射殺することを予定していたが、コロナ禍で難しくなり、また、対立派閥が活気づくだけであるから、望んだ成果は得られない。安部首相を撃ち殺せば、政治権力と統一教会の癒着を解消し、教会の衰退を促すことになるのではという方向に、シフトしていった。このロジックは、実に優秀である。彼に一発の弾丸が、国家権力までも動かし、安部派解体の機運になり、カルト教団の信者の2世を救済する法律までできたのだから、かなり優秀な知性をお持ちの方である。

彼は、私が高校時代野球をしていて、その甲子園で、応援団長をしていた。それだけ優秀な人がロスジェネ世代では、犯罪者にならざるをえないほどの状況である。京都アニメーションも、秋葉原殺傷事件もそうであり、私は、80・50の問題もあるのだから、これから、もっと凶悪犯罪が起こるだろうと思える。どうすればいいのか? と考えたところで、対策の手を打てないのが現実である。

誰がいけないのか? 誰も悪くない。バブルの時期にバブルだと指摘した経済学者はいなかったし、それを想定していた会社は1社もなかった。バブル景気真っ只中の日本は、バブルをバブルだと思っていなかったのである。金魚鉢にいる金魚は、金魚鉢にいるとは思っていないように、その時代の水質は、後の世代にならなければ、誰もが正確にはわからないのだろう。歴史は、枝葉のごとく、どう進むかを誰も正確に予測できることはないのである。

出世の話になったけれど、スーパーの業界で出世するには、どうすればいいのだろう。従業員数が、これだけ多い業界であるから、そして、小学校のように、何もスクリーミングされずに入ってくる人達をいかにマネジメントできるか? 当たり前のことを、いかに当たり前にできるかという力が求められる。そのため、年功序列制から、大きくそれることはできない。それに沿って、人事を基本進めていくことになる。しかし、また逆も考えられるだろう。玉石混交としている人材をつかってとあるけれど、当たりはずれが大きく、誰もが一度や二度は、考えられないぐらい人事的危機的状況に立たされるのは、想像にかたくない。

そのとき、チーフ(主任)なら、サブチーフが、凄く支えてくれた、店長なら、副店長やチーフが支えてくれたということがあると、出世したあかつきには、部下を上にひきあげようという動きが生じる。これが、ワープといわれる出世となり、軍隊でいう3階級昇進というほまれにつながるのである。それ以外は、上の椅子が空いた際に、取り合うというしかないほどのジレンマを経験することになる。

ダーウィンの進化論では、強いものより、環境に適応した者が、生き残るように、環境を考えて、自分ができることをしていくしかないだろう。宿命の残りかすが意思だとしたら、その意思をなげくだけでなく、前向きに歩んでいくしかないのだから……。私も、1個の人間に過ぎないのだから、思い上がらずに、#今日の積み上げを、ここにアップしていこうと思う。ここまで読んでいただいた方、貴重な時間をありがとうございました。何かご恩返しができたら嬉しいです!

川上量生が驚愕のロジックを披露!AIで意識は、簡単につくることができる時代!

www.xn--fhq32lm4eoko24c48b.com
前回の記事↑
続き↓
「思い込みが、動物本能からくる報酬系にダイレクトに結びついているから、恐怖とか感情と、それをだまして、意識をコントロールするのができないというだけで」

「今のAIは、どうして意識をインストールするのか? だから、それは無意識なんですよ。無意識に人間を認識したりだとか、言葉を認識したりだと、そういうような回路しかつくっていないんですよ。意識はそれをオーバーライドする別々のネットワークなんで、そういう風に設計すべきである」

※オーバーライド→(override)とは、乗り越える、~に優先する、覆す、圧倒する、などの意味を持つ英単語。ITの分野では、ある場所で定義された設定や手続き、属性などを、別の定義で上書きすることを指すことが多い。

「どうやってオーバーライドするのか? それは、やっていくアーキテクチャーは、1個しかないと思っていて、複数のニューラルネットワークが結合したのが人間の脳じゃないですか? 視覚・聴覚とかいろいろなものがマルチモードにくっついている。それをまとめて処理して記憶しているのが海馬ですよね。それで、最終の出力層というのがあるわけじゃないですか。そこの部分って、バスにのっているんですよね」

ニューラルネットワークニューラルネットワークとは、人間の脳神経系のニューロン数理モデル化したものの組み合わせのことです。ニューラルネットワークは、人間の脳のしくみ(ニューロン(*1)間のあらゆる相互接続)から着想を得たもので、脳機能の特性のいくつかをコンピュータ上で表現するために作られた数学モデルです。

※バス→バス(bus)とは、乗合自動車という意味の英単語。コンピュータの分野では、データ伝送路および伝送方式の一種で、複数の装置や機器、回路が一つの信号線を共有し、それらの間で相互にデータをやり取りできる構造のものをバスという。

「コンピュータのバスと違って、人間の生体のバスというのは、128ビット、256ビットとかどころではなくて、何万ビットもあるんですよ。ただのケーブルだけを集めているのがバス。まずはそのデータまるごとを、解釈して記憶するのを海馬がやっているんだろうし、その記憶そのものを記号にして処理をするアーキテクチャしか僕はあり得ないと思っているんですよ。」

「視覚や聴覚にあたるものは、人間より何倍も優れたものがでているけど、海馬に当たるものはないのか? それにあたるものが、トランスフォーマーなんですよ。ただ、無意識な奴に合体させちゃったんですよ。トランスフォーマーを、分離して実装するようなアーキテクチャというようなものが、今後出てくるんじゃないかと思っています。」

トランスフォーマー機械翻訳モデル。文章内にある全部の単語間の関係を直接的にモデル化するという「attention」というメカニズムを採用。従来より短時間で正確な翻訳が可能となった。画像や動画などにも適用が開始される。

「分離するというのはどうするか? とても説明は難しいが、トランスフォーマというのは6層になっているじゃないですか?それを僕は1層でいいと思っていて、トランスフォーマというのは、データにアテンションをかけていて、それを記号のように扱うというを内部的にはやっているんだけども、そうじゃなくって、出力データのパッケージを、そのまんま、記号としてアテンションをかけて、海馬のようなところに記憶する。それは、人間の海馬のように、人間の配列の中に、どんどんどんどんストックしていくというぐらいでいいと思うんですけども、それの関連したデータが後から参照してつかえるようなネットワークをつくればいいと思っているんですよね。」

「僕が思っているのは、記号をどうやって実装しているのか? 最も簡単な実装、さっきもそうなんですけど、プログラムを変更するのは、1行だけがいいじゃないですか? 人間の記号で、最も簡単な実装は、色々な視神経とか、聴覚とかの神経の信号そのまんま、巨大なビットのデータとして、そのまま記号につかっているというのが、一番あり得るシナリオだと思っていて、人間の記号? そうですビットマスクです」

※ビットマスク→論理演算の分野で、特定のビットをオンにしたりオフにしたりするために用いられるビットパターン。ある値の特定のビットを1にしたい場合、その位置に設定して、他を0にしたビットマスクを用意し、論理和(OR)演算を行う。

「ビットマスクが実は記号なんですよ。ある概念と、ある概念を合わせた記号をつくろうと思ったら、orする」

「単純な論理演算回路で動かせられる。凄く単純な実装が可能なんですよ」

「これだけ簡単なことなら、偶然生まれることも考えられる。それなのに、こんな思考がなんで古代の文献に出てこないのか? それは、言葉がないからじゃないか? でも哲学者は、それなりに似たような結論は出していた。それを説明できるようになったということ。」

「何千年前に仏教の経典にね、石は石でない。石というものは存在しない。手触り、色、形、重さの奥に、石があると思いがちだけど、色、形、質感等、全部合わさったものが石なんだということ。というようなことを、大昔の仏教の人が言っているんですよね。人間というのが、情報を処理する機械だと思ったら、外界の認識は、外部からの情報をインプットするして合成して外界のイメージをつくっているから、それ以外はありえないですよね。論理的にそれ以外、あり得ない。同じような結論に、コンピューターがなかった時代の人達は、達しているんですよ。」

「そう考えると、簡単に意識を実装できそうですよね。以外と簡単なんじゃないの。難しく考え過ぎなんじゃなの?」

AIのメカニズム言語で、人間の脳を説明する川上量生が面白過ぎる! 文字に起こしてみた!

「意識は情報処理システムである。そうすると、どういうクラスの情報処理システムであるというのは、何かの情報処理システムに寄生しているというのが、意識という情報処理システムの特徴であるというのが、僕が最近思ったことなんですよね。何が言いたいのかっていうと、意識無意識ってあるじゃないですか?」

「無意識っていうのは、いわゆる動物脳なわけなんですよ。人間みたいな意識を持っているのは、人間なだけで、猿もほとんど持っていない。弱い意識があるとは言われていますけど、ちゃんとした意識を持っているのは人間だけなんですよ。そもそも進化的に後からついたものなんですよ。」

「だからまず、意識しているというのは、寄生しているというのがポイント。そうです。無意識に寄生しているんです。それが自分の意識で、どういうようなアーキテクチャーで、進化で発生したのか? というと、プログラムでキーを押す、一番簡単なデバックなんですよ。」

※デバック→ソフトウェアのソースコードのエラーやバグを見つけて修正するプロセス

「あのプログラミングで、1番簡単な機能追加をしようと思ったら、どうしますか? 普通1行だけですよね。1行で機能追加がしようと思ったら、どんな機能追加が可能ですか?それは、何なのかっていうと、これはよくあるんですけども、何か変数をトラップして、その変数の内容を調べて、ある内容だったら別の内容に置き換えるっていうことなんですよ」

※トラップ→トラップとは、コンピュータのプログラム実行中、何らかの異常が発生した場合、実行中のプログラムを中断し、あらかじめ定められている処理作業へ自動的に制御を移す動作のことである。
トラップには異常の発生した箇所が記録され、そのトラブルの状況や原因を判断する資料となる。 なお、トラッピングは割り込み動作であり、ストップ命令とジャンプ命令を組み合わせたトラブル対策の1つである。 また、インターネット用語としてのトラップは、イベント通知の意味で、ネットワーク上で起きた事象をマネージャに報告するメッセージ送信を指す。

「意識というのは、高度に、その部分が発展したのが意識だっていうのですよ。常に動いているネットワークがあるんですよ。常に動いているネットワーク、すなわち流れている情報、色々な情報が流れるんだけれど、そのうちの1万個に1個だけを見つけて、こういうデータが流れてきた時は、これを書き換える。っていう風なデバックコードがどんどんどんどん肥大化していったのが意識なんですよ」

「という風にすると、色々説明がつく。説明がついた先に何があるかというと、何かに寄生しているネットワークだと思おうとするじゃないですか?何に寄生するかというのが重要になるんですよ。それが人間の身体に寄生することを考えると、寄生する先を代えようと、機械にしようという考えで整理ができる。」

「もしくは、寄生する先が、コンピュータでもいいんじゃないか? という風にも思えるわけじゃないですか? 脳も含めた肉体と、それと、その意識の分が」

「動物って条件反射の連続みたいじゃないですか?それの最適解ですよね。自然にそれが淘汰されていって、一番繁栄されそうなシステムになっているだけですよね。」

「そうです。その時、意識はどうやってやるかというと、蛇に食われる絵を見させるというようなことをやっていて、うわぁ怖いよというみたいな、本来なら条件反射だけで動く動物を、うまいこと誘導してコントロールする回路が進化していったのが意識。」

「火は熱くて怖いから逃げようというのを、なんとかコントロールしようというのかな。火は熱いから怖いというイメージを書き換えて送ってあげればいいみたいな。それだったら自然に進化できそうじゃないですか?だから、意識は、多分そんなものなんですよ。人間が、たとえば手とかを変えたいとか、コンピュータに人間の意識を移すときに、これは自分なのか? という問いと向き合わなければならないじゃないですか?」

「その時に、自分をどう認識するか? という価値観が超重要で、第一ステップというのは、意識と肉体のハードウェア、寄生させる情報ネットワークは別物だっていうような価値観が世の中に広がると、それが交換しやすくなる。それは、当たり前に人間がやっていて、車を運転していると、車が自分だと錯覚しますよね。」

「外部の情報処理に過ぎないから、これは自分だ、自分じゃないとやっているに過ぎないので、そこを変えていくところで、自分の概念も変わるし、それは部品を交換していけばいいのかなと思えるというのが、凄い重要で、そうなった瞬間に、色々なことをするハードルが凄く減る。」

「それをどうやって交換するんですか? 意識は頭に寄生しているわけでしょ。それが頭に寄生していると思っているのも意識だから、VR空間のクラウドの中にいても言い訳だ。いるかもしれないし、コピーを作ってもいいんじゃないんですか?一応、並列で動かしてもいいし。そのうち自分でもあったんだと、自分でもわからなくなるしね。」

「それを移行できないのは、思い込みだよね。思い込みが人間の本質でもあるんだけど」

ここまで、川上量生、AIの第一人者が語る脳と意識の考え方を述べてきた。それは、昔から言われてきたことで、学問は自然と闘い克服し、人為を建設する力、いわば人工秩序への努力、秩序というのは、反自然的企画なんだけれど、それなくては、人類の発展はありえなかったということではないか? 人間の内面の感情こそ、最も近くにある自然の驚異と言えるのである。

MBA経営理論の必読書の要約を読んで考えたこと!

世界の起業家が学んでいる、世界のエリートが学んでいるという類いの経営理論を要約した本が、多く出版されている。この度、結構バズっている永井孝尚著の本を読んでみた。その中から、マネジャーの実像を図書館から借りて読んでみても、いまいちピンとこない。要約が図入りでわかりやすく、思考の軸につかえるものがいくつかあっても、実際の専門書には、細かいシチュエーションと専門用語がちりばめられているけれど、ささるものもあればささらなくて聞き流すだけのものも存在する。

細かいシチュエーションごとに、理論が正当であることを証明するために、肉付けをされている印象を受ける。もし、それが素晴らしいと感じれば、そのまま、それを用いることで、自分の経営理論を編み出せばいいだけの話になる。実際、ハーバード等の一流大学のMBAを卒業した人は、この理論をもとにどう経営に携わっているか? という問いかけの方が大切な思考になるのかもしれないと考えたりもする。

さらっとしか、まだ読んでいないが、印象的な文章が黒字で書かれていた。強いリーダーを目指すと、支持者は、フォロワーになってしまい、強いコミュニティーには、それぞれが責任感をもつパートナーシップの方が大切なわけであるということ。店長になる、部長になるという姿をイメージすると、強いリーダー像をイメージする。次々と問題を解決して、手際良く尊敬される姿、それこそがリーダーだと考え、実現のために、努力をしようとする。マネジャーの実像とは、問題から逃げてもいけないし、解決してもいけないのであり、折り合いをつけていくことなんだと諭してくれる本著は、励みにはなるけど、実に詳細に書かれているので、科学的裏付けなどいいという方には、図解要約の書籍でも十分ではないだろうか?

良書の要約とはすべて愚劣なものだと16世紀フランスの思想家モンテーニュは発言した。この当時、すぐれた要約集がなかっただけで、今では、良書の要約する書籍も、一流な要約が出ているから、十分参考にできると答えてもいいだろう。言葉を額面通り受け取るのは危険だということも正しい。同じことを書かれていても、どう解釈するかで、意味が変わってしまう。本格的な情報化社会により、どのように解釈するかで、思考にますます差がついてくる世の中になってきている。知力格差が、ますます拡大していく世界で、AIにより、IQ格差が意味をなさないという茂木健一郎の意見は外れていて、人間は、他人より幸せになりたいだけだから、少しでも高い梯子に上り、いい景色を見たいだけなのだ。

それは、SNSで人は何を誇り、承認されたいかが如実に表れているではないか。私も起業してみたいけど、どうしていいかわからないし、長く、観想生活(テオリア)に、休日は浸っていると、もう世間的な成功等、食うのに困らなければ、どうでもよくなってくる。これではいけないと考えて、私は、ここに日々、書いていくことに決めた。何をしようか?何もすることないじゃないか?という言葉が浮かんでくる。日本という国が、戦争で負けて、無くなっていくことで、国を大切にしようという心意気を失っていくことが、少子高齢化につながっているのだろうか?という疑問も湧いてくる。

マイホーム主義が、幸せにならないと理解している現代において、次なる希望を示さなければ、家族をもって、子供を産んで育てようとは、思えない人の比率は、どうしても上がってきてしまうのではないか? 私は、何をしよう。何もないし、今まで、野球やって、文学やって、スーパーの仕事をして、多くの人に携わってきたけど、年々、頭が固くなってきて、老害への一歩を歩んでいるという確かな足の感触だけが残っているというぐらいしか、日々の実感が湧かない。

経営学の本を読んで、仕事をしていると考えることは、具体的な経験が、より少しの言葉で表し、抽象的に考えられるようになると、会社で他の部署で起きている現象を予想し、仮説を立てて検証できるようになる力を得られるということはある。それを成果に結びつけるには、行動あるのみだろう。ニヒリズムの沼に陥るのなら、行動による実感に救いを求めた方が良さそうだ!

映画オッペンハイマー 世紀の物理学者の内面に、映像で迫る試みが、初めて成功した作品だ! 

15禁であるのは、ラブシーンが2度出てくる。これが、実に刺激的であるがゆえに、そのような年齢制限になったのだろう。もし、それがなければ、子供連れで観に行くとか、高校の映画鑑賞で使用するとか、視聴者の裾野は広がっただろうけど、オッペンハイマーの人間に、真に迫るものとしては、なくてはならないのだろう。

歴史に名をのこす人物は、人並みの人生をすべて犠牲にしなくてはならないとヒトラーは口にした。ナチス設立の時期から、共に長く政治携わってきた宣伝相ゲッペルスは、映画女優との結婚を切にのぞみ、妻と離婚し、政治の舞台から去って、女優と再婚したいと願い出たが、ヒットラーは、歴史に名をのこすものは、人並みな幸せのすべてを犠牲に供しなければならないと肯んじなかった。オッペンハイマーの女性との関係のどれもが、核開発に携わる中で、修復の難しいものとなっていく。

識者においては、オッペンハイマーの苦悩を描いているだけで、原子爆弾を落とされた広島・長崎の人々、核実験で被爆した人々、ロスアラモスから追い出された先住民等、多くの被害者がいるのに、そのことへの言及がないという声もある。また、核開発には、女性研究者も多く携わっているのに、モブ的に位置づけで、現代のジェンダー問題をおろそかにしているという声もある。これは、様々の立場から、好き勝手なコメントを出せば、さもありなんというだけの話で、私としては、この映画は、反戦というより、原子爆弾を製造する総責任者である彼の物語であって、もし被害者だ、ジェンダーだと取り込めば、ただでさえ、会話が続く物語の中で、テーマがなんであるのか、チンプンカンプンになるに決まっている。テーマ1つに絞って、3時間、天才物理学者の苦悩に、映像を通して本気で迫る試みが、この作品における表現を芸術に域にまで高めているのである。

原子爆弾の名前を、広島では、リトルボーイ、長崎では、ファットマンと、男性として扱うところが、支配できるものとして連想されるのは、フロイトの潜在意識の分析における夢判断をまたずともわかる話である。やはり、アメリカは、超人的な何かをもつものを、ちやほやする国、大切に扱う国であるというのが、伝わってくる。共産主義を探しだす赤狩りで、オッペンハイマー自身も、散々疑われてしまうほどである。原子爆弾の次は、水爆を開発しようという案に、彼は、世界平和を訴えかけて、その開発に疑問を投げかけてしまったというのが、疑われた理由である。

彼は、開発することで、ロシアも同じ水爆を開発し、そのいたちごっこにより、世界は取返しのつかない事態になると警鐘している。私がアメリカ人であれば、彼の意見には反対だ。先につくることで抑止力になり、政治を有利にすすめられるのは、歴史が証明している。そして、人類の英知に対する彼の自惚れであって、のんべんだらりとしているうちに、すぐ他国が、水爆を開発しているものなのだ。認識は、人間の野原であり、海であり、一般存在の様態に過ぎないから、彼が脳裏に浮かぶ数式でさえも、多くの書物は人々との出会いによってもたらされているに過ぎないのである。現在は、スマホをあることで、超情報化社会となっているから、自社にしかない極秘な知恵等、よっぽどのことがない限り、オープンにしても、他の情報を、トラやライオンが、獲物に貪欲に食いつくぐらいに求めていくことの方が、往々にして大切なことなのだ。

映像の手法では、既存映画と一線を画する映像手法が用いられている。オッペンハイマーの視点がカラーで描かれ、戦後も核開発推進論者で、世俗的な権力を奪取することに燃える俗物、アメリ原子力委員会の委員長ルイス・ストローズの視点がカラーで描けている。これ以上の核開発に警鐘をならし、原爆の父と影響力絶大のオッペンハイマーのことを、うとましく考えているストローズは、彼を失墜させるために、様々な権謀術数にかけようとする。それにより、オッペンハイマーの核を創り出した男としての苦悩が、対照的にはっきりと浮き上がるように描かれているのだ。

原子爆弾が広島で威力を発揮したとき、足を踏み鳴らし歓迎一色の人達に、彼は向かい入れられた。彼は話ながら、それを聴く聴衆が、原爆の被害者のように、目に写ってくる。顔の皮膚が火傷でただれていく姿、一瞬で目の前の人がいなくなる様子、歩いて何かをふみつけてあと思って下を向くと、黒焦げになった幼子の死体であること、飲み過ぎたためにゲロをはいている男性すらも、原爆の被害者を連想させるものとしてみえてくる。

ストローズは、政治の閣僚に入れずに敗れ、その悔しさを、アインシュタインが、科学者にたきつけたために、原子力開発の反対票にいれる者が出てきたのだと癇癪を起す。最初の頃の場面に戻り、アインシュタインオッペンハイマーの会話の内容が、クライマックスであきらかになる。アインシュタインは、もう量子論がわからない私には、なにもないが、君も名誉をさずけられる時がくるだろう。次の時の人は君だけど、その時、注意しなければならない。それは、すべて彼らのためになるから寄ってきているだけで、決して君自身ではないと忠告する。オッペンハイマーは、核爆弾は、火が空気について全世界を覆っていく可能性について話したけど、それは本当ですよ。地球は私達が破壊したのだからと、つぶやいたところで、核の炎が、世界を覆っていくところでエンドロールとなる。

オッペンハイマーの驚いたところは、読書家で、理論物理学だからそれだけ考えているだけでなく、マルクスの『資本論』を3冊読んでいたり、インドの聖典「バガバッド・ギータ」の言葉を、世界初の原爆が1945年7月16日に爆発したのを目の当たりにして、「我は死なり、世界の破壊者なり」という言葉を思い出したそうだ。私は、こう返そう。
「我は生なり、世界の創造者なり」。この言葉は、結果的に同じことを述べているに過ぎない!

にほんブログ村 ライフスタイルブログ こころの風景へ
にほんブログ村
カテゴリ
阪神タイガース・プロ野球・スポーツ