
※物語の結末に触れています。
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』を観た。
ほとんど予備知識を持たずに観たので、最初は前作『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』の続編であることも、よく分かっていなかった。
主人公の百合を演じるのは福原遥。
百合はかつて1945年の日本へタイムスリップし、特攻隊員の彰と出会い、恋をした。しかし、彰は特攻隊員として空へ飛び立ち、帰らぬ人となる。
現代へ戻った百合は、それから7年後、彰の夢でもあった高校教師になっている。
そんな百合の前に、臨時任用教員として宮原涼という青年が現れる。演じているのは細田佳央太だ。
涼は百合のクラスの副担任となり、彼女が生徒たちに戦争や特攻隊のことを伝えようとする姿を支えていく。資料集めにも付き合い、百合をまっすぐに思い続ける。
百合も次第に涼へ好意を抱く。
それでも、百合はその思いを受け入れられない。
自分が新しい人を好きになれば、命を落とした彰を裏切ることになるのではないか。彰に何も返すことができなかった自分が、幸福になってよいのだろうか。
この映画が描いているのは、単なる三角関係ではない。
亡くなった人への愛と、これから始まる愛は両立するのか。
過去を忘れずに、未来へ進んでもよいのか。
その問いなのだと思う。
圧倒的な美男美女ではないことの魅力
福原遥は、もちろん美しい。
しかし、観客を圧倒する大スターの華やかさだけで見せる俳優ではない。一見すると親しみやすく、見ているうちに表情の豊かさや、感情を訴えかける力に引き込まれていく。
細田佳央太も、きらびやかな王子様として登場するわけではない。
もちろん世間一般でいえば十分に格好いいのだが、いかにも美男子という雰囲気を前面には出していない。少し不器用で、真面目で、百合の隣に黙って立ち続ける青年として描かれている。
この二人の雰囲気がよかった。
もしも二人が、見る者を寄せつけないほど完成された美男美女だったら、これは選ばれた人間だけの恋物語に見えてしまったかもしれない。
しかし二人には、私たちが感情移入できる余白がある。
だから百合の迷いや涼の誠実さを、自分のことのように感じられる。
破られた小説をつなぎ直す
百合のクラスには、周囲から少し浮いている小説家志望の生徒・紗良がいる。
その紗良が書いた小説を、ほかの生徒が取り上げてからかい、破いてしまう。
百合と涼は、散らばった原稿を拾い集め、一枚ずつセロテープでつなぎ直して紗良へ返す。
この場面は、映画全体を象徴していたように思う。
一度破られたものを、完全に元へ戻すことはできない。
つなぎ合わせても、破れた跡は残る。
それでも、散らばった断片を拾い、一つずつつなぎ直せば、その物語には再び続きを書くことができる。
それは百合の人生そのものではないか。
彰を失った事実は消えない。傷もなくならない。しかし、その傷を抱えたまま、人生をつなぎ直すことはできる。
百合と涼に助けられた紗良は、今度は二人の関係を敏感に察する。
「おせっかいをしてもらったから、今度は私がおせっかいをする」
そんな気持ちで、百合の背中を押していく。
最後には、いつか先生たちの物語を小説に書きたいと話す。
百合と彰、そして涼の物語が紗良へ渡され、やがて一冊の小説となり、それが私たちの観ている作品へとつながっていく。
物語の中の人が物語を書き、その物語を私たちが観る。
そこには、記憶を次の時代へ手渡していく、二重、三重の構造がある。
過去の愛と、現在を生きる愛
百合の背中を最も強く押すのが、戦時中に知り合った千代である。
年老いた千代を演じているのは倍賞千恵子だ。
若い頃の千代は、特攻隊員の石丸を思っていた。しかし石丸は戦争で亡くなり、千代は戦後、別の男性・林吉と結婚する。
林吉は、千代の心に別の男性がいることを知りながら、それも受け入れようとした。
一見すると、何もかも包み込んでくれる強い男性に見える。
しかし林吉自身もまた、戦争で深い傷を負っていた。
飼っていたインコが死に、それを土へ埋めようとしたとき、戦場で仲間を失った記憶がよみがえる。林吉はその場で倒れ、自分は一人で生きることが怖かったから、千代を利用したのだと泣き崩れる。
強く見えていた人も、本当は弱かった。
千代は、その弱さを知ったことで、むしろ林吉と生きていこうと決める。
石丸への思いが偽物になったわけではない。
林吉への愛が、石丸を忘れた結果でもない。
亡くなった人を思い続けることと、今そばにいる人を愛することは、同時に成り立つ。
千代は自分の人生を通して、そのことを百合に教える。
そして「大切に思っている人がいるのなら、行ってきなさい」と百合の背中を押す。
百合と千代が交わすハイタッチが、とても印象に残った。
あれは単なる別れの挨拶ではない。
戦時中を生きた千代から、現代を生きる百合へのバトンタッチだったのだと思う。
失われた命を忘れないこと。
それでも、未来の幸福を拒まないこと。
過去から未来へ、「生きなさい」という思いを手渡す場面だった。
子供だましのようで、子供だましではない
正直にいえば、この映画の世界はかなり現実離れしている。
登場人物には、根っからの悪人がほとんどいない。
現実の恋愛につきまとう金銭、嫉妬、打算、性、裏切りといったドロドロしたものも、ほとんど描かれない。
歴史映画として厳密な考証を求めれば、引っかかるところもあるだろう。
話の運びも分かりやすく、漫画や昔話のようで、見方によっては子供じみている。
それでも私は泣かされた。
むしろ、子供じみているほど純粋だったから、泣かされたのかもしれない。
現実では、人間の気持ちはこれほどきれいではない。
善意だけで人間関係が動くことも少ない。
大人になればなるほど、私たちは他人の言葉の裏を読み、損得を考え、純粋な感情をそのまま信じられなくなる。
ところが、そんな大人の心の中にも、純粋なものを求める部分は残っている。
映画の中に、ほんの一瞬でも打算のない優しさや、見返りを求めない愛が見えると、その部分が不意に反応する。
そして、うっと涙がこみ上げてくる。
マドンナの理想とソドムの理想
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、人間について「マドンナの理想で始まり、ソドムの理想で終わる」と語らせている。
マドンナは、純潔、崇高さ、神聖な愛の象徴である。
ソドムは、欲望、官能、堕落の象徴である。
しかし、ドストエフスキーが恐ろしいと考えたのは、人間がマドンナからソドムへ転落することだけではない。
ソドムの理想を心に抱いた人間でさえ、純潔だった少年時代のように、マドンナの理想を心の中で燃やし続けている。
崇高な愛と肉体的な欲望。
純粋さと堕落。
聖なるものと俗なるもの。
その両方が、一人の人間の中に同時に存在している。
人間は決して純粋なだけの存在ではない。
年齢を重ねれば、欲望も打算も醜さも知っていく。
それでも心のどこかでは、何の見返りも求めない愛や、誰かをただ大切に思う気持ちを信じたいと願っている。
『あの星が降る丘で、君とまた出会いたい。』は、その心の奥に残っている「マドンナの理想」に触れてくる映画だった。
物語自体は単純で、あまりにきれいで、子供じみている。
しかし、その純粋性がふっと姿を見せた瞬間、普段は理屈や現実に覆われている何かが揺さぶられる。
泣いたのは、映画が現実そのものだったからではない。
現実にはなかなか存在しない純粋さを、まだ自分が求めていることに気づかされたからだ。
生き続けることは、裏切ることではない
百合は最後に、涼のもとへ走る。
福山雅治の『邂逅』が流れる中、二人は星降る丘で再会する。
百合は彰を忘れたわけではない。
彰への愛を捨てて、涼を選んだのでもない。
彰を愛した自分も、その後に涼を愛した自分も、どちらも受け入れたのだと思う。
過去の人を思い続けながら、未来の人を愛してもよい。
新しい幸福を受け取ることは、亡くなった人への裏切りではない。
生き続けることは、忘れることではない。
この映画は、そんな単純で、しかし人間にとって切実なことを伝えている。
洗練された映画かと問われれば、そうではないかもしれない。
それでも、かなり泣かせる映画だった。
そして、泣かせる物語は必ずしも複雑である必要はないのだと気づかされた。
人はマドンナのような理想に恋をし、やがて弱さを持つ生身の人間を愛する。
現実の泥の中に生きながら、それでも純粋なものに憧れ続ける。
その矛盾こそ、人間の恐ろしさであり、同時に救いでもある。
この映画には、そんなサジェスチョン――人間についての大切な示唆があった。
#あの星が降る丘で君とまた出会いたい
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