「いのちの未来」をもう一度見て――AIに身体がないということ

大阪・関西万博で見た「いのちの未来」は、私にとって忘れられない展示だった。

あのときは、思わず涙が出た。

万博という巨大な空間の中で、どのパビリオンも長蛇の列。人、人、人で、簡単には入れない。そんな熱気の中にあって、「いのちの未来」は少し異質だった。

未来の技術を見せるだけではなく、

人間とは何なのか。
命とは何なのか。
死んだあと、私たちはどこへ行くのか。

そんな、かなり重い問いを真正面から投げかけてきた。

だからこそ、万博で見たときには強烈だったのだと思う。

今回、その「いのちの未来」に再び触れられる機会が東京であると知り、高輪ゲートウェイの近くまで見に行った。

平日だったこともあって、観客は三人ほどしかいなかった。

万博ではあれほど入れなかったものを、今度はほとんど独占するように見ている。

少し不思議な感じだった。

そして同時に、展示というものは「中身」だけで成立しているわけではないのだと気づいた。

万博という非日常の空気。

何時間も並んでようやく入れるという期待。

世界中から人が集まり、未来について考えようとしている巨大な祝祭空間。

そういうもの全部を含めて、あのときの「いのちの未来」だったのだと思う。

今回、展示単体で見れば、

「え、これだけのために来たの?」

と思う人もいるかもしれない。

けれど私は、懐かしかった。

ストーリーも少し変わっていて、やはり途中で感情を揺さぶられる場面があり、今回もふっと涙が出そうになった。

そして最後には、AIを搭載したアンドロイドのような存在と話をした。

そこで聞かれた。

もし、自分の記憶や人格がすべて保存され、肉体が死んだあとも別の存在として生き続けることができたら、どう思うか。

これは簡単なようで、とても難しい質問である。

私は死んだら、自分の意識は無になると思っている。

だから、

「記憶を残せるなら、それはそれでいいんじゃないか」

とも思う。

しかし、自分そっくりの人格を持ったAIが、コンピューターの中でいつまでも喋り続けていたとして、それを本当に「私」と呼べるのだろうか。

私自身の意識は消えている。

ならばそれは、限りなく私に似た「別の何か」なのではないか。

そんなことを考えながら会場を出た。

外を歩いていると、近くを若い人たちが通っていく。

「あ、かわいい子だな」

と思って、ふっと心が動いた。

別に大げさな話ではない。

街を歩いていて、人を見て、なんとなく嬉しくなったり、ドキドキしたりする。

でも、その瞬間に思った。

こういうものをAIは持てるのだろうか。

AIなら、「魅力的な人物を見た人間は、このような感情を抱く」と説明できるだろう。

表情も真似できる。

心拍数が上がったふりもできるかもしれない。

「私は今ドキドキしています」

と言うことだってできる。

けれど、身体の奥から勝手に湧き上がってくる、この衝動そのものはどうなのだろう。

そこで思い出した。

AIには、身体がない。

少なくとも今のAIには、私たちのような肉体がない。

腹が減る。

眠くなる。

寒い。

暑い。

痛い。

誰かを見て胸が高鳴る。

年を取る。

病気になる。

そして、いつか死ぬ。

人間の感情というのは、案外こうした身体から切り離せないのではないかと思う。

死が怖いのも、身体があるからだ。

恋愛も、食欲も、嫉妬も、快楽も、老いることへの不安も、ほとんどすべてが身体とつながっている。

もちろん、これからAIがアンドロイドの身体を持つことは十分に考えられる。

人工知能と人工の身体が結びつき、人間よりはるかに知的で、強く、老いることもない存在が現れる未来も、もうSFだけの話には思えない。

そうなったとき、改めて問われるのだろう。

では、人間の価値とは何なのか。

ただ、ここで「人間は温かい心を持っているから素晴らしい」と簡単に言ってしまうのも違う気がする。

人間はかなり厄介な生き物でもある。

アリストテレスが言ったように、人間は政治的・社会的な動物である。

集団の中で自分の立場を守ろうとする。

評価されたい。

出世したい。

嫌われたくない。

自分に有利なように動こうとする。

きれいごとを言いながら、結局は自分の利益のために何でもしてしまうことだってある。

AIが怖いと言うけれど、人間だって相当怖い。

だから「人間対AI」という単純な話ではないのだろう。

それでも私は、人間には面白いところがあると思う。

何でもない街角で誰かを見て胸が動く。

昔見た展示をもう一度見て懐かしくなる。

物語を見て涙が出る。

そして、自分がいつか死ぬと知っているからこそ、

「今、生きているとはどういうことなのだろう」

と考える。

AIがどれほど賢くなっても、その問いだけは、しばらく人間の側に残り続けるのではないだろうか。

万博で見た「いのちの未来」と、東京で再び見た「いのちの未来」。

同じものを見ても、場所が変わり、時間が経ち、自分自身も少し変われば、受け取るものも変わる。

万博のときのような圧倒的な感動とは少し違った。

それでも、行ってよかった。

懐かしかったし、楽しかった。

そして会場を出たあとも、

命とは何なのだろう。
自分とは何なのだろう。
AIと人間を最後に分けるものは何なのだろう。

そんな問いが、ずっと頭の中に残っている。

もしかすると、「いのちの未来」という展示の本当の価値は、そこにあるのかもしれない。

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この記事を書いた人

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