
理想と現実のあいだで、それでも「愛」を学びたい
最近、休日になると、行きつけの家電量販店の休憩スペースで本を読んでいる。
何度も通っていると、「また来ている人だ」と周囲から見られているような気もする。それでも、本を開き、自分と向き合える場所は貴重だ。
考えてみると、世の中には「無料で自由にいられる場所」はほとんどない。
飲食店なら注文をする。商業施設の休憩所も買い物をした人のための場所。結局、人は何らかの価値を交換しながら生きている。「ただほど高いものはない」という言葉は、案外真実なのかもしれない。
そんな場所で、私はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいた。
しかし、読めば読むほど、ある違和感も生まれてくる。
フロムは「愛とは責任であり、尊重であり、配慮であり、知ることである」と語る。そして、「恋愛感情だけでは結婚は続かない。愛とは意志である」と繰り返し説いている。
この考え方には深く共感した。
好きという感情や性的な魅力は、時間とともに変化する。だからこそ、夫婦として人生を歩み続けるには、「この人と生きる」という意志が必要なのだ、と。
昔のお見合い結婚が必ずしも恋愛から始まったわけではない。それでも多くの夫婦が家庭を築き、人生を共に歩んだ。その背景には時代や文化もあっただろうが、「続けようとする意志」があったことも確かだろう。
太宰治の言葉に、
「結婚は努力です。厳粛な努力です。」
という一節がある。
この言葉とフロムの考えは、不思議なほど重なって見える。
一方で、私はフロムに対して割り切れない気持ちもある。
これほど愛について論理的に語る人物が、現実には複数回の結婚と離婚を経験している。
もちろん、思想家だから完璧である必要はない。
それでも、「語ること」と「生きること」の間には、大きな隔たりがあるようにも感じてしまう。
その点では、私は三島由紀夫のほうが現実を見つめているように思う。
三島は人間の弱さや欲望、矛盾を隠そうとはしない。理想だけではなく、人間の現実を直視する。
だからこそ、私は三島文学にも強く惹かれるのだろう。
最近読み始めた夏目漱石の『それから』も、また違った意味で驚かされた。
派手な展開があるわけではない。
現代の小説のような刺激的な物語でもない。
それでも、登場人物は確かに生きている。
明治という時代に、ここまで人間の心理を描き切った漱石の知性には圧倒される。
100年以上前に書かれた作品でありながら、現代の私たちにも通じる普遍性を持っていることに驚かされる。
主人公・代助は「高等遊民」と呼ばれる存在だ。
働かず、しかし心は決して自由ではない。
社会に踏み出すべきか、自分の信念を貫くべきか。その葛藤は、現代を生きる私にもどこか重なって見える。
だから私は今、漱石を読んでいるのだと思う。
そして、読書を続ける理由はもう一つある。
大学時代の初恋の人の存在だ。
もし本当に彼女がシングルマザーだったとしても。
もし借金や苦労を抱えていたとしても。
もし子どもがいて、その子どもたちの人生も背負うことになるとしても。
私は、自分にできる限りの誠実さで向き合いたいと思っている。
もちろん、それは私一人では決められない。
彼女が私をどう思うか。
怖いと思うかもしれない。
迷惑だと思うかもしれない。
あるいは、もう全く別の人生を歩んでいるのかもしれない。
それでも、もし彼女が私を必要としてくれる日が来るなら、その時は人生をかけて支えたい。
子どもたちの成長も含め、その家庭を支える覚悟はある。
私は45歳になった。
体力も少しずつ落ち、健康診断では今まで付かなかった判定が付くようになった。
肩や腰も痛くなる。
人生が永遠ではないことを、以前より強く感じる年齢になった。
だからこそ思う。
この先の人生で、本当に一人の人を愛し、家庭というものと向き合ってみたい。
それは私の長年のコンプレックスでもあり、人生でまだ果たせていない課題でもある。
今すぐ手紙を書くつもりはない。
でも、もう少し時間が経ち、それでも何も変わらなければ、もう一度だけ、自分の思いを書いてみようと思う。
返事を求めるためではない。
私の人生で、一度だけ本気で愛した人に、正直な気持ちを伝えるために。
だから今の読書は、知識を増やすためだけではない。
いつか自分の言葉で、本当に大切な思いを伝える日のための準備なのだと思っている。
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