仕事に追われるうちに、自分の一年が過ぎていく

仕事のことで、一日が終わってしまう。

最近、いちばんこたえるのは、その感覚だ。

会社から求められる基準は上がっている。数字も、仕事の質も、以前と同じでは足りない。僕も、やらなければと思っている。現場をよくしたいし、責任のある立場として、応えたい気持ちもある。

ただ、そのための仕事に取りかかる前に、毎日の仕事をどうにか進めることで力を使い果たしてしまう。

僕は鮮魚の現場で働いている。そこでは、決められた手順を守ることが大切だ。けれど、手順を知っているだけでは判断できないことも多い。

同じ商品でも、気温や天気によって売れ方が変わる。午前と夕方では、売場で必要になるものが違う。お客さんの入り方、商品の残り方、その日に働いている人の人数や得意な仕事。それらを見ながら、次に何をするかを考える。

目の前の出来事を結びつけて判断し、何度か経験したことから共通点を見つける。そういう考え方が、現場では日々必要になる。

ところが、この判断を一緒に働く人と共有するのが、難しい場面が続いている。

決められた仕事に取り組むことと、状況が変わったときに自分で判断すること。その間には、思っていた以上に大きな距離があるのかもしれない。

こちらが当然と思っていた前提が、相手には見えていない。会話をしても、同じところを見て話しているつもりで、実は違うことを考えている。すると、何をするかの前に、なぜ今それが必要なのか、どこから説明するかを考えなければならない。

僕の伝え方にも、改善できるところはあるだろう。できる仕事を少しずつ増やしてもらいたいとも思う。けれど、その説明と確認を、忙しい現場の中で何度も繰り返すのは、やはり疲れる。

上からは成果を求められる。現場では、説明や確認、やり直しが増える。その間をつなぐのが自分の役割なのだと分かっていても、何か月も続けば、気持ちがすり減っていく。

周囲にも、難しい状況は伝わっているのだと思う。それでも、担当を任されている以上、最後には自分がどうにかすることになる。仕事が進まなかった理由を説明できたとしても、明日の仕事が軽くなるわけではない。

一日をなんとか終える。そして、また次の一日が来る。

その繰り返しの中で、改善のために使いたかった時間まで、目の前の対応に消えていく。

こう書くと、誰かへの不満ばかりになってしまう。実際、不満はある。腹も立つし、環境が変わってくれたらと期待することもある。もう少し自然に話が通じれば、ずいぶん違うだろうと思ってしまう。

ただ、いちばんつらいのは、この状態がいつまで続くのか、自分にも分からないことなのだと思う。

以前の職場では、もっと露骨に居場所を失いそうになったことがあった。それを思えば、今は仕事があり、給料ももらえている。ありがたいことだとも思う。

だから、今のことで苦しいと言うのは、贅沢なのかもしれない。そう考えて、自分の気持ちを引っ込めることもある。

けれど、昔のほうがつらかったと確認しても、今の疲れは消えない。恵まれていると思う気持ちと、もうしんどいと思う気持ちが、どちらもある。

相手を育てることも、僕の仕事の一つだろう。少しずつでもできることが増え、別の場所でも働いていけるようになればいいと思う。

同時に、僕にも限界はある。どこまで自分が引き受け、どこから周囲と分担する必要があるのか。その境目を、うまく見つけられずにいる。

そして、仕事の事情とは関係なく、時間は過ぎていく。

家に帰ると、両親がいる。その両親も、一年ごとに体が弱っていく。仕事で消耗した月日は、家族と過ごせる時間の中からも過ぎていったのだと、ふと気づく。

去年は、出かけたことを思い出して、いい一年だったなと思えた。今年はどうだろう。仕事の難しさばかりが浮かんでくる。

もちろん、何もなかったわけではない。本も読んだし、文章も書いた。けれど、疲れている夜には、それらまで遠くなって、ただ仕事をしているうちに一年が終わってしまうような気がする。

そんなことを考えていたら、THE YELLOW MONKEYの「JAM」を思い出した。

高校時代、仲間がカラオケで歌っていた曲だ。歌がうまかったな、という記憶が残っている。あの頃に聴いた歌が、長い時間を経て、今の自分の中でまた鳴っている。

あのあと、僕は何をしてきたのだろう。

働いてきた。いろいろな職場を経験し、苦しいこともあった。それでも生活を続けて、今ここにいる。

なのに、自分の人生を振り返ろうとすると、ときどき、がらんとした場所に立たされたような気持ちになる。日々やることはこんなにあるのに、自分が何を望んでいるのかは、すぐに答えられない。

ただ、何も積み重ねてこなかったと決めてしまうのも、違う気がする。

今の僕は、こうして自分の気持ちを言葉にしようとしている。腹が立つ、疲れた、逃げたい。その先に何があるのかを、少しずつ考えられるようになってきた。

数字や記号には、今も苦手意識がある。学校の勉強についても、自信があるとは言えない。それでも、ものを考えることは嫌いではない。本を読んで、自分がうまく言えなかった感覚に近い言葉を見つけると、もう少し考えてみようと思える。

ブログを書くのも、その延長なのだと思う。

誰が読むのだろう。誰にも読まれないかもしれない。反対に、弱音を見せたくない相手に読まれてしまうかもしれない。

そう考えると、書く手が止まる。何をどこまで書くかは、迷う。

それでも、頭の中で繰り返していたことを文章にすると、少しだけ分かることがある。

職場の人との関わりに疲れている。それだけでなく、両親の老いも気になっている。自分のこれまでを振り返って、この先も仕事に追われるばかりで過ぎてしまうのかと、不安になっている。

別々に見えた気持ちが、今夜はつながっていた。

それを言葉にできたからといって、明日の現場が急によくなるわけではない。これからどうするかも、まだ決まっていない。

ただ、ここまで書いて、今夜の自分が何に疲れ、何を気にしていたのかは、少し分かった。

体に大きな病気がなく、こうして本を開けることは、今の僕には救いだと思う。今夜はヘッセの『荒野のおおかみ』を少し読んで、それから眠ろう。

仕事のことを考えるうちに、今日も終わりそうになっていた。

本を開く時間くらいは、自分のために使ってから、一日を終えたい。

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この記事を書いた人

鮮魚の現場で働きながら、美術館・博物館、文学、映画、旅、仕事や人生について、実際に見たこと・経験したことを自分の言葉で記録しています。検索でたどり着いた方にも、何か一つ持ち帰れる文章を目指しています。

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