
新宿バルボラの星咲ひまりさんに入った。
私はこの店に来るとき、いつもYシャツを着ている。
「仕事終わりに来ました」
そんな話をすることも多いのだけれど、実のところ、ここ数年の私は「私生活」というものがずいぶん薄くなっている。休日でさえYシャツを着て出かけることがあり、私服らしい私服をほとんど持っていない。
この日も、「仕事でこちらの方を回っていて」とでも言えそうな格好をしていたが、実際には仕事ではなかった。
昼間、新宿で劇団四季の『王様の耳はロバの耳』を観てきたのである。
舞台に現れた森の妖精が、とても美しかった。
その表情を何度も目で追った。
もちろん、一人の出演者だけではない。身体の動き、声、表情、舞台全体を使って物語を伝えていく劇団四季の表現力そのものに魅了された。人間はここまで身体を使って美しいものを表現できるのかと思い、大満足で劇場を後にした。
そして、その数時間後に会ったのが、星咲ひまりさんだった。
彼女の予約欄は、以前からいつ見ても埋まっていた。
かつてバルボラに「スターシステム」があった頃も、いつも五つ星だった記憶がある。人気があることは十分わかっていた。
ところが店長コメントを読んでも、意外なほど短い。
大げさに「絶対おすすめです」と押しているようにも見えない。
それなのに、いざ予約しようとすると空いていない。
そんなことを何度か繰り返し、私はこれまでバルボラに何度もお世話になりながら、星咲さんだけにはなかなか会えずにいた。
この日は、ようやくその機会が巡ってきた。
「階段の上で待っています」
そう聞いて階段を上がっていくと、彼女は本当に階段口で待っていてくれた。
無邪気な感じで迎えてくれた。
その瞬間に受けた印象は、明るさと誠実さだった。
「ああ、入ってよかった」
まだ何も始まっていないのに、そう思った。
そして同時に、少し前まで劇場で見ていた美しい女性が、そのまま舞台から降りて目の前に現れたような錯覚を覚えた。
おそらく私という人間の中には、昔から女性に対して二つの相反する気持ちがある。
美しい女性への欲望は強い。
しかし、美しければ美しいほど近づくことができない。
絶世の美女と一緒にいられるという幸福感と、「こんな夢のような時間を、たった数万円で手にしてしまっていいのだろうか」という、どこか背徳的な感覚が同時に湧いてくる。
学生時代から私は、女性への欲望が強かったにもかかわらず、むしろ女性を避けるところがあった。
それは純粋さだったのだろうか。
臆病だっただけなのだろうか。
あるいは、
「高嶺の花だからこそ、それにふさわしい男になろうと努力する自分」
という物語を、自分自身が大切にしていただけなのかもしれない。
星咲さんと過ごしているうちに、そんなことまで考えた。
最初は恋人同士のようなじゃれ合いとキス。
そこからは、足技やフィンガーテクを含め、熟練という言葉を使いたくなるほど多彩だった。
文字通り、骨抜きになった。
それほど気持ちがいい時間の最中にも、私は妙なことを考えていた。
「もし学生時代に憧れていた女性と、こんなふうになれていたら、自分の人生はもっと幸福だったのだろうか」
ということである。
バルボラに来るようになってから、私は何度かこの問いに対するヒントをもらった気がする。
青春時代、
「あの女性を口説けていたら」
「あの人と付き合えていたら」
「あの人と身体を重ねることができていたら」
そういう経験をしていたなら、自分はもっと自信を持てただろう。
現在まで抱えてきたコンプレックスも、なかったかもしれない。
私は長い間、どこかでそう思っていた。
ところが実際に、自分にとって「憧れ」に近いほど美しい女性を目の前にすると、不思議なことが起きる。
もちろん、ものすごい快感がある。
全身を幸福感が走る瞬間もある。
しかし、そのすぐ後ろから、
「それで?」
という問いがやってくる。
憧れていたものを手にしたはずなのに、その瞬間から、憧れだったものが現実になってしまう。
「こんなものだったのか」
という感覚が、ほんのわずかに顔を出す。
それはたぶん、どれほど女性にモテる男でも同じなのだろう。
大学時代、次々と女性と付き合っては、また別の女性へ向かっていく、まるでジゴロのような同級生がいた。
美人の彼女を連れて、誇らしそうにキャンパスを歩いていた。
当時の私は、そんな彼を羨ましく思った。
「自分にはないものを全部持っている」
そう見えた。
けれど今になって考える。
もし本当に満たされていたのなら、なぜ次の女性を探し続けなければならなかったのだろう。
手に入れても、また次へ行く。
そこにはもしかすると、
「まだ何かを得られていない」
という焦燥があったのかもしれない。
ジョルジュ・バタイユのいうエロティシズムを思い出す。
人と人が完全に一つになることなど、本当はできない。
性は、一瞬だけその境界を越えられるような錯覚を与えてくれる。
けれど「絶対的なもの」に触れたと思った瞬間、それは指先からするりと逃げていく。
だからこそ、また求める。
エロスとは、そういう不可能性まで含んだものなのかもしれない。
星咲さんは、よく笑ってくれた。
キスをしてくれた。
こちらに向けてくれる表情も、とても感じがよかった。
恋人同士のような時間が続く。
嬉しい。
けれど同時に、私は自分の中に、温かさをそのまま受け取れなくなっている部分があることにも気づいた。
婚活をしていた頃、会っている最中には相手が楽しそうに笑ってくれて、
「これは好意を持ってくれているのではないか」
と思うことが何度かあった。
ところが家に帰り、後日また会いたいと連絡すると、お断りの返事が来る。
そんな経験を繰り返していると、人間は自惚れなくなる。
それはたぶん、悪いことではない。
ただ、その代わり、
「目の前の人が自分に向けてくれている温かさを、素直に信じられない」
という副作用も生まれる。
星咲さんと一緒にいながら、私はそんな自分も発見していた。
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』では、愛とは単に「愛されること」ではなく、自分自身が主体的に相手と向き合うことだと論じられていたと記憶している。
相手の本心を完全に知ることなどできない。
まして、ここはサービスを提供する場所である。
だからこそ、
「彼女は本当に自分を好きなのだろうか」
などという問いに意味はない。
大切なのは、そこで自分が何を感じ、相手にどう向き合うかということなのだろう。
そう考えれば、少なくとも私は、
「今日、あなたに会えて本当に嬉しかった」
という気持ちは、きちんと伝えることができたと思う。
以前、美容関係の仕事をしていたと聞いた。
なるほどと思った。
美容の世界にいる女性をそのまま体現したような人だった。
顔立ちがとても綺麗で、明るく、それでいて最後までこちらの快楽に真剣に向き合ってくれる。
今日一日を振り返ってみると、感謝という言葉しか残らなかった。
星咲ひまりさんだけではない。
新宿バルボラという店との出会いそのものが、思いのほか私の人生に幸福な時間を与えてくれた。
人からここまで尽くしてもらい、快楽を与えてもらう。
極楽浄土という言葉を使いたくなるような時間だった。
帰り際。
エレベーターのところで別れるとき、ふと星咲さんが真面目な表情になった。
その顔を見て、
「また会いたいな」
と思った。
これまでの人生で、これほど美しい女性と床を共にした日は、果たして何度あっただろう。
ふと、シティヘブンの口コミで見た言葉を思い出した。
「世界四大美女」
そんな書き込みだった。
その話を星咲さんにすると、その投稿を書いたらしい人は、二年ぶりに会いに来てくれたのだという。
二年。
その年月を聞いたとき、少しわかるような気がした。
その人もきっと、長い日常を生きている。
仕事をして、年齢を重ね、いろいろな出来事を経験している。
それでもふとした瞬間に、
「あの日、ものすごく美しい女性と一緒にいた」
という記憶が蘇ったのではないだろうか。
そして、もう一度会いたくなった。
青春というのは、年齢ではないのかもしれない。
「こんな人に会いたい」
と思い、
実際に会うことができ、
胸が高鳴り、
そして別れた後に、その日のことを何度も思い返す。
そういう時間そのものが、青春なのだろう。
欲望は満たされても、人生そのものが満たされるわけではない。
憧れに触れても、絶対的な何かを手に入れられるわけではない。
けれど、だからといって、その時間に価値がないわけでもない。
むしろ、届かないものがあるからこそ、人は誰かに惹かれるのかもしれない。
昼には舞台の上の森の妖精を目で追い、
夜には星咲ひまりさんの笑顔を見ていた。
ずいぶん贅沢な一日だった。
そして帰りの電車の中で、
「今日という日は、きっと長く覚えているだろうな」
と思った。
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