
「毎日、毎日、僕らは鉄板の上で焼かれて、嫌になっちゃうよ」
『およげ!たいやきくん』は、日本の歴史に残る大ヒット曲になった。子どもの歌でありながら、その歌詞に多くの大人が自分の姿を重ねたのだろう。
毎日、同じ場所へ行き、同じように働く。嫌になって逃げ出したとしても、その先に、本当の自由が待っているとは限らない。
私も結婚したいと思うことがある。
しかし一方で、今まで仕事を続けてこられたのは、現在の生活のバランスがあったからこそではないか、という気持ちもある。私生活に新しい出来事がいくつも入り込んできたら、仕事さえままならなくなるのではないか。
愛することも、働くことも、生きることも、すべてが駄目になってしまうのではないか。
そんな不安に駆られることがある。
なんだか、頭の中がごちゃごちゃしている。もっと即物的に、目の前のことだけを考えて生きられたらよかったのかもしれない。けれど私は、昔から何かを考え始めると、その奥へ奥へと入り込んでしまう。
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』には、強制収容所での過酷な生活のなか、生きているかどうかさえ分からない妻を心に思い浮かべる場面がある。
心の中で妻の姿を見つめ、彼女と会話していることを想像する。その時間によって、今日一日を生き延びることができた。
心理学者であるフランクルが、アウシュヴィッツをはじめとする収容所での体験を、一つの文学的な作品にまで仕上げたことには驚かされる。世界中で長く読み継がれているのも、よく分かる内容だった。
もちろん、西欧の、とりわけキリスト教的な思想を背景に書かれた部分については、日本で生まれ育った私には、いったん自分の中で意味を濾過しなければ理解しにくいところもある。
それでも、四十五歳になって初恋の幻想に苦しんでいる私にとって、この本は、自分の心の中で何が起きているのかを教えてくれた。
なぜAIが、今の私に『夜と霧』を勧めたのか。その理由が、読んでみて本当によく分かった。
最近は、ChatGPTの返答が以前よりも情を交えなくなり、冷たくなったと感じる人もいるらしい。
確かに、堅物で、こちらの気持ちやフィーリングを度外視しているように感じることもある。なんだか食えない奴だな、と思うときがないわけでもない。
それでも、「今の自分に合う歌を一曲教えてほしい」「今読むべき本を紹介してほしい」と尋ねれば、自分だけでは出会えなかった作品を差し出してくれる。
これほど知的な刺激に満たされた日々は、AIなしには考えられなかったかもしれない。
しかし、生きる充実感とは、知的刺激があるかないかということより、もっと根源的なものなのだろう。
死が近づくほど、生のありがたさに光が差す。
『夜と霧』は、人間が経験した残酷な現実を描いている。それなのに、読み進めていると、そこに生きる喜びが描かれているようにも感じられる。
悲惨な状況だからこそ、一杯のスープや、一筋の光や、心の中に浮かぶ愛する人の姿が、かけがえのないものになる。普段は見過ごしている生の小さな輝きが、極限の状況では、はっきりと姿を現すのかもしれない。
ドストエフスキーは、人間とはどんな生活にも慣れてしまう存在だという趣旨のことを書いている。
私は学生時代にその言葉と出会った。そして『夜と霧』の中で再び引用されているのを見つけた。
もし、あの彼女と結婚することがあったとして、子どものいない二人の生活を始めたとしても、何年かたてば、それも日常になっていくのだろうか。
今の段階では、すべてが空想にすぎない。
会えるかどうかも、彼女が何を考えているのかも、これから何が起こるのかも分からない。それでも、前を向いて歩いていこうと思う。
ただ、ふと時間ができると、また空想の中に入り込んでしまう。
そして我に返ったとき、「私はいったい何をしているのだろう」と、ニヒリズムが湧き上がってくる。
ニーチェは「神は死んだ」と言った。
では、アウシュヴィッツのような場所が生まれたとき、神はすでに死んでいたのだろうか。
あるいはフランクルが見つめていたのは、神が沈黙する世界においても、人間がなお、愛する人を心に思い浮かべ、今日一日を生きようとする姿だったのかもしれない。
神がいるかどうかは、私には分からない。
ただ、鉄板の上で焼かれているように感じる毎日の中でも、人は誰かを思い、本を読み、歌を聴き、わずかな意味を探しながら生きている。
その営みそのものが、生きることなのかもしれない。
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