四十五歳になって、初恋の意味を考える

四十五歳になって、学生時代に好きだった人のことを思い出すようになった。

それは、単なる懐かしさではなかった。若い頃に戻りたいという、ありふれた感傷とも少し違っていた。もっと深いところで、自分の人生の空白に触れてしまったような感覚だった。

学生時代の彼女は、私にとって特別な存在だった。明るく、真面目で、誠実で、どこか建設的に人生を歩んでいくような雰囲気があった。私は、その人に幸せになってほしいと思っていた。自分がどうなりたいかというより、まず、あの人には幸せでいてほしい。そう思える女性は、私の人生の中で他にあまりいなかった。

不思議なもので、長い年月が経っても、記憶の中の彼女はあまり変わらない。

声の感じ、表情、何気ない振る舞い、会話の断片。そういうものが、ふとした瞬間に蘇ってくる。すると、二十五年以上も前の時間が、まるで昨日のことのように感じられる。時間は確かに過ぎたはずなのに、自分の心のどこかだけが、その場所に残されたままになっている。

私はこれまで、女性と本気で向き合うことを避けてきたのかもしれない。

もちろん、仕事はしてきた。お金もそれなりに貯めた。ブログを書き、文学を読み、AIの時代に興味を持ち、日々の仕事に追われながらも、なんとか自分なりに生きてきた。独身の気楽さもある。自分で稼いだお金を自分のために使える自由もある。誰かを背負わないことで守られてきたものもある。

だから、この生活がまったく悪いとは思わない。

むしろ、ある意味では合理的だった。家庭を持たず、子供も持たず、自分の時間とお金を自分の内面のために使う。文学、ブログ、仕事、AI。そういうものに囲まれて生きていくことも、一つの人生である。

けれど、両親が老いていく姿を見るようになって、少しずつ何かが変わってきた。

このまま自分は、誰とも本気で向き合わずに死んでいくのだろうか。誰かと人生を分かち合うこともなく、誰かに深く関わることもなく、自分の内側だけを整理しながら終わっていくのだろうか。そう考えたとき、胸の奥に、ぽっかりと穴が開いていることに気づいた。

その穴の輪郭を照らし出したのが、学生時代の初恋だった。

私は、若い頃からどこかで、女性というものを恐れていたのかもしれない。幼い頃に読んだ宗教的な物語の影響もある。そこでは、女性や家族や子供は、悟りや修行の妨げとして描かれていた。子供だった私は、それをどこか真に受けてしまった。恋愛や家庭というものを、人生を乱すもの、精神を低くするもの、避けるべきものとして受け取ってしまったところがある。

今になって思えば、それはかなり偏った受け取り方だった。

けれど、子供の頃に心に入った観念は、簡単には消えない。私は女性と向き合うことを避ける一方で、心のどこかでは、誰かと深くつながることを求めていた。その矛盾を抱えたまま、ここまで来てしまった。

初恋の人を思い出すとき、私は彼女自身だけを思い出しているわけではないのだと思う。

その人と一緒にいたかもしれない人生。自分が別の選択をしていたかもしれない時間。もっと素直に誰かを好きになり、もっと自然に家庭や恋愛の中へ入っていけたかもしれない自分。そういう失われた可能性を、まとめて見ているのだと思う。

だから苦しい。

彼女が特別だったから苦しいのではなく、彼女を通して、自分の人生の未完了の部分が浮かび上がってくるから苦しいのだ。

理性的に考えれば、過去は戻らない。四十五歳の私は、二十歳の私ではない。相手もまた、あの頃のままではない。人生には、それぞれの年月があり、それぞれの現実がある。思い出の中の人を、現在の人間として見つめ直すことは、簡単なことではない。

それでも、心は過去へ向かう。

あのとき、もっと話していれば。あのとき、自分の弱さを乗り越えていれば。あのとき、女性を人生の障害などと思わず、一人の人間として向き合えていれば。そうした後悔が、今になって押し寄せてくる。

けれど、もしかすると大切なのは、過去を取り戻すことではないのかもしれない。

初恋の人とどうなるかよりも、その記憶を通して、自分が何から逃げてきたのかを知ること。自分が何を恐れ、何を求め、何を失ったと思っているのかを見つめること。その作業こそが、今の私に必要なのかもしれない。

私はこれまで、恋愛を避けることで自分を守ってきた。

しかし同時に、恋愛を避けることで、自分の一部を置き去りにしてきたのだと思う。仕事をし、資産を作り、文章を書き、知的なものに救われながら生きてきた。それは確かに私の人生だった。けれど、その人生の底には、誰かと本気で向き合えなかった寂しさが残っている。

四十五歳になって初恋を思い出すというのは、若返りたいということではない。

それは、自分の人生の中で凍りついたままになっていた感情が、ようやく溶け始めたということなのかもしれない。過去の恋は、現在の私に問いかけてくる。

お前は本当に、このまま一人でいいのか。

誰とも深く向き合わずに、最後まで行くつもりなのか。

その問いに、私はまだ答えられない。

ただ一つ言えるのは、初恋の記憶は、単なる過去ではなかったということだ。それは、今の私を映す鏡だった。失われた時間への哀しみであり、まだ終わっていない人生への問いでもあった。

過去を取り戻すことはできない。

けれど、過去が教えてくれることはある。

私は今、その声を聞こうとしている。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

大日如来参上のブログへようこそ。ここでは、性の本質、結縁の道、聖地巡礼、社会の問題、舞台や映画のレビュー、そして智慧の書など、多様なテーマを通じて、内なる美と智慧を探求します。
私は、衆生の心の美を見つめ、その内なる光を見出す手助けをしています。
このブログの目的は、読者の皆様が日常生活の中で智慧と平和を見つけ、心と体を鍛え、人生の本質に近づくための情報とインスピレーションを提供することです。
大日如来の教えを通じて、皆様の人生がより豊かで意味深いものとなりますように。

コメント

コメントする

目次