

大正時代に描かれた桟橋の絵を見ていると、水面に灯りが揺れていた。
夜の港なのだろうか。遠くには船影があり、桟橋の上では二人の人物が、何かを話している。
客観的に見れば、何か劇的な事件が起きているわけではない。
ただ、人がいて、灯りがあり、水面があり、夜がある。
それだけの場面なのに、私は妙に心を惹かれてしまう。
こういう場所で、誰かとぽつぽつ話ができたなら、どれほど心がほどけるだろう。
たいした話でなくてもいい。昔のことでも、今日あったことでも、これからどうするのかという話でもいい。
夜の空気に守られるようにして、互いの言葉が少しずつ水面に沈んでいく。
そういう時間に、私は昔から弱い。
いつから私は、こんなふうに優しい気持ちになれる人間関係を、うまく築けなくなってしまったのだろう。
最近は、何かに追い立てられるように、焦りばかりが先に立っている。

雪の降りしきる山間の宿の絵も、心に残った。
屋根には厚く雪が積もり、外に出るのもためらわれるほどの夜である。けれども、家々の窓には明かりがともっている。その明かりが、そこに人の暮らしがあることを静かに知らせている。
外は寒い。
しかし、部屋の中には火があり、酒があり、誰かの声がある。
そんなことを想像するだけで、胸の奥が少し温まる。
仕事に追われ、理不尽な扱いを受け、数字ばかりに責められている日々の中で、私はこの絵の中の一室に逃げ込みたくなった。
雪を眺めながら一人で酒を飲み、女将さんと、どうしてここまで来たのかをしみじみ話す。
お互いの人生の寒さを、少しだけ温め合う。
そんな場面を、絵の中に見てしまう。

一方で、龍に乗る観音のような大作もあった。
荒れ狂う海、炎、雲、そして白い衣をまとった女性。構図も技術も見事で、神話的な力に満ちている。素晴らしい絵であることは、疑いようがない。
けれども、私の心の核に触れるかといえば、少し違う。
私はどうやら、あまりにも崇高なものよりも、もっと世俗に近いものに惹かれるらしい。

たとえば、カメラを手にした芸妓の絵である。
伝統的な装いの女性が、近代の道具であるカメラに触れている。そこには、古い美しさと新しい時代の気配が同時にある。
俗に染まれない自分が、それでも世俗への愛を感じる瞬間がある。
その瞬間に、私は少しだけ詩人になるのかもしれない。
人間の暮らし、仕事、恋、諦め、見栄、欲望、寂しさ。
そういうものを一度は遠ざけようとしてきたはずなのに、結局私は、そこにしか人間の温度を見いだせないのだろう。

横長の女性群像の絵も印象深かった。
ある物語では、嫁を選ぶために肖像画が送られる。女性たちは自分が選ばれないよう、わざと見栄えの悪い肖像画を描かせようと賄賂を渡す。しかし一人だけ、そうしなかった女性がいる。自然のまま、美しい心のままに描かれたその人だけが、遠くへ送り出されてしまう。
その悲哀を、画家は実に美しく描いていた。
選ばれることは、必ずしも幸福ではない。
美しくあること、正直であること、賄賂を渡さないことが、かえって運命を引き受けることになる。
その皮肉と哀しみが、静かな画面の中に沈んでいる。
こういう絵は、私の心にぐっとくる。
単に美しい女性を描いているのではない。
人が人生の流れに押し出されていく、その瞬間を描いているからだ。

そして、ゴッホの《夜のカフェテラス》を目の前で観た。
館内に入ってからも人が多く、二十分ほど並んで、ようやく絵の前に立つことができた。目の前で見られるのは、ほんの十秒ほどである。それでも、その十秒には確かな力があった。
夜の街に、黄色いカフェの光が大きく華やいでいる。
この黄色は、ただ明るいだけではない。
人を吸い寄せる光である。孤独な夜道を歩く人間に、「ここにはまだ人のいる場所がある」と知らせる光である。
私はこの絵を見てから、夜に歩くことが少し好きになった。
夜の街には、昼間とは違う居場所がある。人々がいなくなった道、閉まりかけた店、遠くの灯り、空の暗さ。その中にぽつんと光る場所があると、それだけで心がそちらへ寄っていく。

ゴッホの花の絵もまた、濃かった。
花瓶に活けられた薔薇は、ただ綺麗に飾られているというより、いま目の前で生きているようだった。絵具は厚く、筆触は強く、画家がそこに立って、まだ描き続けているような気配があった。
ゴッホの絵には、逃げ場のなさがある。
美しいから描いたというより、描かなければ生きていられなかったのではないかと思わせる濃さがある。
私自身も、最近、自分の逃げ場や居場所がどんどんなくなってきているように感じる。
仕事にも、生活にも、人間関係にも、どこか追い詰められている感覚がある。
死のことが頭をよぎる日もある。けれども、とりあえず今日も生きている。
絵を観ること。
夜に歩くこと。
こうして言葉にすること。
それらは、立派な解決ではないかもしれない。
しかし、今日をやり過ごすための小さな灯りではある。
桟橋の灯り。
雪の宿の明かり。
カメラを手にした芸妓の静けさ。
運命に送り出される女性たちの悲哀。
そして、ゴッホの黄色い夜。
私はそれらの絵の中に、自分がまだ求めているものを見ていたのだと思う。
それは、誰かと話すこと。
誰かのいる灯りへ近づくこと。
そして、自分の中に残っている寂しさを、完全には消せなくても、少しだけ温めることだった。




















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