葛飾北斎の絵にいたのは、富士山ではなく、人間だった

葛飾北斎の絵を見ていると、富士山や風景の美しさ以上に、そこにいる人間たちの姿が気になってくる。

江戸時代の人々は、いったい何を考えながら、この道を歩いていたのだろうか。
どんな用事を抱え、どんな悩みを抱え、どんな人に会いに向かっていたのだろうか。

北斎の絵には、単なる風景画には収まりきらない、生命の充実のようなものがある。


1枚目『東都駿台』

まず目に入るのは、笠をかぶって歩く人々の姿だった。

ちょんまげの人たちが、日差しを避けるように笠をかぶっている。今の私たちから見ると、その笠の形だけで、江戸という時代が立ち上がってくる。

けれど、ここを歩いていた人たちは、自分たちの姿が後の時代から「江戸らしさ」として眺められるなど、思ってもいなかったはずだ。

それぞれが荷物を持ち、それぞれの用事を抱えて歩いている。

商いに向かう人もいただろう。
誰かに会いに行く人もいただろう。
家に帰る人もいただろう。

今よりも情報量の少ない時代だったからこそ、人々の心の中は、もっと近しい人間関係の悩みでいっぱいだったのかもしれない。

頼りにしていた人が亡くなることもあっただろう。
新しい子を授かることもあっただろう。
家族のこと、仕事のこと、明日の暮らしのこと。
そんな思いを抱えながら、人々はこの坂道を歩いていたのではないか。

手前にいる茶色の袴を着た男性などは、どこか足取りが重く見える。長らく歩いてきた人の疲れのようなものが、背中に滲んでいる気もする。

一方で、遠くには富士山の雪が白く見えている。

その白と、茶畑のように広がる野や林の緑、そして道を行く人々の姿。
この対比が実に鮮やかだ。

北斎の絵には、どこか「活きの良さ」がある。
風景の中に、人がいる。
人がいるから、風景が生きている。


2枚目『駿州江尻』

この絵では、風が吹いている。

けれど、風そのものは見えない。
見えないはずの風を、北斎は見えるものとして描いている。

笠を押さえる人。
飛ばされそうになる紙。
身体を傾けながら歩く人々。
しなる細い樹々。
その枝先から舞い散る葉や花。

一枚の絵の中で、情景が動いている。

風を描いてみたい。
見えないものを描いてみたい。
それをどうすれば人に伝えられるのか。

北斎は、そんな面白心に誘われながら、この絵を描いたのではないかと思う。

風は見えない。
しかし、風に抗う人間の身体は見える。

飛ばされまいと笠を押さえる仕草に、風の強さが宿る。
乱れる紙に、風の方向が宿る。
曲がる木に、自然の力が宿る。

北斎は、風そのものではなく、風にさらされる人間を描いた。

そこがすごい。

見えないものは、人間の反応によって見えてくる。
この絵には、そんな芸術の本質のようなものがある。


3枚目『五百らかん寺さざゐどう』

この絵では、人々が富士山を眺めている。

面白いのは、こちらに背を向けている人が多いことだ。
だから私は、絵の外から眺めているというより、その場に一緒に立って、江戸の人々と同じ方向を見ているような気持ちになる。

以前、日本語学校の先生をしていた人から聞いたことがある。
外国人に「日本でどこに行きたいですか」と聞くと、多くの人が「富士山」と答えるらしい。

富士山は、ただの山ではない。
日本人が長らく見上げ、崇め、美しいものとして心に刻んできた象徴なのだろう。

この絵の中の庶民たちも、富士をただの風景として見ているのではない気がする。
どこかで、ありがたいものを見るように、少し心を澄ませて眺めている。

私たちも同じだ。

今日でも、遠くに富士山が見えると、つい立ち止まってしまう。
見慣れているはずなのに、やはり目にとまる。
そして、しばらく眺めてしまう。

御殿場の近くから見た富士山は、本当に大きかった。
こちらに肉薄してくるような迫力があった。

静岡県や山梨県で、あの大きな富士を日常的に見て育った人には、どこか器の大きさがあるようにも思える。
それは思い込みかもしれない。
けれど、毎日あの山を見ていれば、人間の心にも何かしらの広がりが生まれるのではないか。

富士に手を合わせたくなる気持ちも、少しわかる。


北斎の絵にある「人間のいる風景」

北斎の絵を見て歩いていると、花見の情景も印象に残った。

江戸の人々が桜の下で楽しんでいる姿は、現代とあまり変わらないようにも見える。
ただ、娯楽の少なかった時代だからなのか、人々の表情は今よりもずっと明るく、生き生きしているようにも見えた。

桜の木や樹木の葉、花が、画面のかなり上の方に描かれていることにも目がいった。
少し不自然なくらい、高いところに枝葉が広がっている。

けれど、それもまた北斎らしいのかもしれない。

北斎は、ただ美しい風景だけを描きたかったのではない。
その風景の中に、人がいること。
そこに暮らしがあること。
そこに生命があること。

それを描きたかったのではないか。

風景の中にいる人間。
その人間の心。
そして、その風景の中に自分も立っているような感覚。

北斎の絵を見ていると、江戸時代の遠い風景を眺めているはずなのに、なぜか自分自身の人生まで照らされているような気がしてくる。

人はいつの時代も、何かを背負って歩いている。
風に吹かれながら歩いている。
そして、ふと立ち止まり、遠くの富士を眺める。

北斎が描いたのは、富士山だけではなかった。

その前で生きている人間だった。

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