美術館を出た後もしばらく、胸の奥に湿った空気が残っていた。
アンドリュー・ワイエスの絵画には、どれも説明しがたいもの悲しさが漂っている。
明るい日差しは差し込んでいる。
風は吹いている。
人物も家も、そこに存在している。
なのに、なぜか生命の中心だけが静まり返っている。
私は昔、ヒトラーの描いた絵画を見たことがある。
あちらにも生気の薄さ、色彩の冷え、どこか空虚な空気があった。
ただ、その空虚は膨大なニヒリズムの気配だった。
一方、ワイエスは違う。
世界を否定しているのではない。
むしろ世界を愛している。
愛しているからこそ、過ぎ去っていく時間の残酷さが描かれてしまう。
扉の前の女性──郷愁を超えて、静かな絶望へ

最初に心を掴まれたのは、戸口に座る女性だった。
モデルは奥さんなのだろうか、と自然に考えた。
横顔は穏やかで、外には豊かな日差しが広がっている。
けれど、その身体はどこにも向かっていない。
外へ出るでもない。
こちらを見るでもない。
ただ、時間の流れの中に身を置いている。
郷愁というには少し重い。
もっと深い。
人生は進み続ける。
その中で、人は何かを諦め、何かを受け入れ、静かに座ることしかできない。
そんな気配があった。
でも不思議だった。
苦しい絵なのに、苦しくない。
隣に座って、一緒に風を受けたくなる。
ワイエスの絵には、孤独があるのに、孤立がない。
廃屋の手前──生活という名の重力


二枚目の建物。
一見すると、ただ古びた家に見える。
けれど見ているうちに、そこに住んだ誰かの時間が滲み出てくる。
壁。
窓。
崩れかけた輪郭。
そこに作者の精神生活が染み込んでいるようだった。
生活というものは、喜びだけでできていない。
疲れもある。
退屈もある。
惰性もある。
ワイエスは、建物を描いているようで、人間の時間そのものを描いていた。
横たわる女性──日常を永遠へ変える力

三枚目。
女性が横たわっている。
特別な事件は起きていない。
ドラマもない。
けれど、その質感が異様なほどリアルだった。
布の重み。
身体の温度。
午後の光。
ワイエスは、確かにその瞬間を見た。
そして描いた。
思った。
もしかすると、作者にとって救済とは、大きな思想でも革命でもなかったのかもしれない。
ただ、目の前の何気ない時間を永遠に留めること。
誰も振り返らない午後に光を当てること。
それだけが、自分を救う方法だったのではないか。
帰り道、私は少しだけ静かになっていた。
人生は華やかな瞬間ばかりではない。
むしろ、何も起きない時間の方が長い。
ワイエスは、その退屈で、寂しくて、美しい時間を描き続けた。
だから、見終わったあと、私たちは少し救われるのかもしれない。

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