チュルリョーニス展に行ってきた――森、墓地、王たちの光に見た「内なる星図」

立西洋美術館で開催されている「チュルリョーニス展 内なる星図」に行ってきた。

チュルリョーニスという名を、私はそれほど以前から深く知っていたわけではない。
ただ、画家であり、作曲家でもあったというその経歴に、どこか強く惹かれるものがあった。

絵を見るというより、音を聴きに行く。
あるいは、風景を見るというより、自分の心の奥に眠っている何かを確かめに行く。
そんな気持ちで展示室を歩いた。

実際に作品の前に立ってみると、そこにあったのは、単なるリトアニアの風景ではなかった。
森、墓地、星、十字架、王、光。
それらは現実の風景であると同時に、魂の中にある風景でもあった。

目次

森――心の奥へ続く通路

まず印象に残ったのは、暗い森の絵だった。

樹々の間に、手の姿をした風の文様のようなものが描かれている。
それは霞のようでもあり、樹々の間からは、雲を透かして陽光がこちらに届いてくるようにも見える。

この絵の中には、太陽と地球の自転と公転が、ずっと昔から繰り返してきた大きな力がある。
そして、その大きな力の下で、こちらにささやきかける風がある。
梢の音色がある。

森は静かである。
けれど、無音ではない。

むしろ、誰もがどこかで聴いたことのある自然の音が、この画布の中にこめられているように感じた。

木々は、ただ立っているのではない。
沈黙した柱のように、こちらの内面を囲んでいる。
その奥へ進むことは、外の世界から離れて、自分の心の深い場所へ入っていくことのようにも思えた。

チュルリョーニスの森は、観光地としての森ではない。
それは、心の奥へ続く通路である。

《リトアニアの墓地》――死ではなく、魂の記憶

次に強く心に残ったのが、《リトアニアの墓地》だった。

墓地という題名から、私はもっと暗く、陰惨な絵を想像していた。
しかし実際に見たその絵は、単なる死の絵ではなかった。

そこには、暁のような、暁闇のような、早朝のような、不思議な時間が流れていた。
夜がまだ完全には明けきらず、しかし闇だけでもない。
そのあわいの時間の中に、リトアニアを象徴する十字架が立っている。

いや、立っているというより、むくむくと起き上がってくるように見えた。

墓標であるはずの十字架には、不思議な生命力がある。
それらは傾いているのではない。
むしろ、地中から記憶が芽吹くように、静かに立ち上がっている。

天上には星屑がきらめいている。
その星々は、リトアニアの祖先の魂のようにも見えた。
地上の十字架と、天上の星屑。
死者の魂が空にきらめき、地上の墓標がそれに呼応している。

この絵には、魂がこもっている。

日本人の私にとって、墓地という言葉は、家や先祖や個人の死を連想させる。
しかし、チュルリョーニスの墓地には、それよりも大きなものがあった。

それは、森であり、国であり、民族であり、失われてもなお消えない記憶である。

この絵を見ていると、死者はただ眠っているのではないと思えてくる。
死者たちは、星となり、風となり、森となり、今もこの土地の上に息づいている。
《リトアニアの墓地》は、死を描いた絵でありながら、同時に、生命の絵でもあった。

王たちの光――理想国家の夢

さらに印象に残ったのが、二人の王が中央の光を見守っている絵である。

画面の左右に、王のような人物がいる。
彼らは巨大で、静かで、どこか超越的である。
その中央には、光に包まれた小さな世界がある。
そこには人民の姿があるようにも見える。

二人の王は、その光の中の人々を見守っている。
支配しているというより、見守っている。
命令しているというより、祈っている。

この構図には、政治的な理想があるように思えた。

人類の歴史を見ても、幸福で平和な世の中は、いつも表層に過ぎなかったのかもしれない。
その下には、戦争があり、貧困があり、権力争いがあり、信仰があり、神への畏れがあった。

西欧のキリスト教圏の文化が骨身に沁みている人でなければ、この絵の本当の意味を感じることは難しいのかもしれない。
神の意思を重んじ、王が地上の秩序を担うという感覚。
人民を、ただ統治の対象としてではなく、神の光のもとにある存在として見守る感覚。

この絵には、そうした古いヨーロッパ的な精神が流れているように見えた。

政治の芸術化、芸術の政治化

この作品を見ながら、私はふと、政治の芸術化であり、芸術の政治化という言葉を思った。

政治が、ただの制度や権力闘争ではなく、神話や象徴や美の形式をまとって人々の心に入り込むこと。
そして芸術が、ただ個人の内面表現にとどまらず、民族や国家や共同体の記憶を背負っていくこと。

チュルリョーニスの絵には、その両方があるように感じられた。

ただし、それは声高な政治主張ではない。
旗を振る絵ではない。
人々を扇動する絵でもない。

むしろ、森、墓地、星、十字架、王、光といった象徴を通して、言葉になる前の共同体の魂を描いている。

ここでいう政治とは、政党や権力闘争のことではない。
もっと根源的な意味での政治である。
人はどのような共同体に生きるのか。
死者の記憶をどう受け継ぐのか。
国家や民族や信仰は、人間の魂にどのような形を与えるのか。

チュルリョーニスの絵は、そうした問いを静かに投げかけてくる。

正直に言えば、私の中にも、危うい夢想が一瞬よぎった。
この絵の王たちのように、一国を理想のうちに治めてみたい。
美と秩序と祈りによって、混乱した世界をひとつの光の中にまとめてみたい。

しかし、それは同時に危険な夢でもある。
美しい理想は、ときに人間の自由を奪う。
政治が美に酔いしれたとき、その美は暴力にもなり得る。

だからこそ、この絵は単純に美しいだけではない。
理想の光と、その背後にある権力の危うさ。
祈りと支配。
保護と統治。
その両方を感じさせるところに、深さがある。

チュルリョーニスの絵は、答えを与えない

チュルリョーニスの絵は、わかりやすい物語を語ってくれる絵ではなかった。

これは何の絵なのか。
何を意味しているのか。
そう考え始めると、簡単には答えが出ない。

けれど、だからこそ心に残る。

森の絵では、風の音を聴いた。
《リトアニアの墓地》では、死者の魂と民族の記憶を見た。
王たちの絵では、理想国家の夢と、その危うさを感じた。

チュルリョーニスの作品は、答えを与えるというより、見る者の内側に問いを残していく。

「これは何の絵なのか」ではなく、
「この絵を見て、自分の中の何が反応したのか」
を問われているようだった。

内なる星図とは何か

展覧会の題名にある「内なる星図」とは、チュルリョーニス自身の星図であると同時に、見る者それぞれの中に眠っている星図でもあるのだろう。

森、墓地、星、王、光。
それらは遠いリトアニアの風景でありながら、不思議なことに、自分の心の奥にも昔からあった風景のように感じられた。

チュルリョーニスの絵は、外の世界を描いているようで、実は内側の世界を描いている。
自然を描いているようで、魂を描いている。
民族を描いているようで、人間がどう生き、どう死に、何を祈るのかを描いている。

展示室を出たあとも、しばらく静かな音が残っていた。

それは森の梢の音だったのか。
墓地の上にきらめく星屑の音だったのか。
王たちが見守る光の中から響いてきた、まだ名づけられていない音楽だったのか。

チュルリョーニス展は、作品をすべて理解するための展覧会ではない。
自分の中に眠っていた風景と、静かに出会うための展覧会だった。

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この記事を書いた人

大日如来参上のブログへようこそ。ここでは、性の本質、結縁の道、聖地巡礼、社会の問題、舞台や映画のレビュー、そして智慧の書など、多様なテーマを通じて、内なる美と智慧を探求します。
私は、衆生の心の美を見つめ、その内なる光を見出す手助けをしています。
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