国立歴史民俗博物館の第1展示室では、最終氷期から古代国家の成立までを見た。
国立歴史民俗博物館・6展示室シリーズ: 第1展示室|第2展示室|第3展示室|第4展示室|第5展示室|第6展示室
石器を作る。
動物を狩る。
死者を葬る。
祈る。
稲を育てる。
土地を持つ。
争う。
国家を作る。
そこには、現在まで続いている「人間の原型」のようなものがあった。
そして第2展示室へ進む。
ここへ来ると、人間の世界は一気に複雑になっていく。
平安時代の王朝文化、荘園、武士、鎌倉幕府、都市、市場、商人、宗教、戦乱、そして海外との交流。
第1展示室で「国家」という大きな枠組みが成立したとすれば、第2展示室では、その内部で人間が猛烈に動き始める。
物が動く。
人が動く。
文字が動く。
思想が動く。
そして知識そのものが動き始める。
展示を見ながら、私は中世という時代を、それまでとは少し違うものとして感じ始めた。
「知識を複製する」という、とてつもない発明

特に面白かったのが印刷である。
版木には、一文字一文字が逆向きに彫られている。
そこに墨を塗り、紙を当てる。
そうすれば、同じ文章を何度でも作ることができる。
現在から見れば単純な技術に見える。
しかし、これは人間の歴史にとって、とてつもなく大きな発明だったのだと思う。
話し言葉は、その場にいる人間にしか届かない。
誰かが覚えていなければ消えてしまう。
文字ができれば、考えを残せる。
そして印刷ができれば、それを複製できる。
一人の頭の中にあった知識を、十人へ、百人へ、さらにその先へ伝えられる。
つまり印刷とは、本を作るだけの技術ではない。
人間の頭の中にあったものを、社会全体で共有する技術だった。
誰かが発見したことを、次の人間が最初から発見し直す必要がなくなる。
前の世代が考えたところから、その続きを考えることができる。
文明が加速するというのは、こういうことなのだろう。
文字になることで、人間の思考も変わる



文字そのものについても考えた。
話し言葉は、その場の空気や表情や勢いと一緒に伝わる。
しかし文字にすると、言葉は人間から切り離される。
誰が言ったかではなく、
「何が書いてあるのか」
そのものが残る。
さらに文章になれば、目の前には存在しないものまで考えられる。
国家とは何か。
死とは何か。
正義とは何か。
自分とは何か。
抽象的な概念を残し、それについて何世代にもわたって考え続けることができる。
言葉を文字にすることは、単に会話を記録することではない。
人間の思考そのものを外部に保存することだったのではないか。
百万塔陀羅尼――大量に複製された「祈り」

展示されていた小さな塔も印象的だった。
百万塔である。
その中には、印刷された陀羅尼、つまり仏教の言葉が納められている。
百万塔陀羅尼自体は奈良時代のものだが、その後の仏教書出版へ続いていく印刷文化の流れの中で見ると非常に面白い。
大量に複製されたものの一つが、単なる実務文書ではなく、祈りの言葉だった。
それを見て、第1展示室との違いも感じた。
第1展示室でも、人間はすでに祈っていた。
死者を葬る。
死後の世界を想像する。
自然の力に畏れを持つ。
しかし時代が進むと、それが仏教という巨大な思想体系になっていく。
「自分とは何なのか」
「どう生きるべきなのか」
「死後はどうなるのか」
人間の目が、外の自然だけではなく、だんだん自分自身の内側にも向かい始める。
それを可能にしたものの一つが言葉であり、文字であり、書物だったのではないかと思う。
印刷からインターネット、そしてAIへ
版木を見ていると、どうしても現在まで一本の線を引きたくなる。
口伝。
文字。
写本。
木版印刷。
活字。
新聞。
ラジオ。
テレビ。
インターネット。
そしてAI。
人類史は、情報を、
より多く、より正確に、より遠くへ、より速く伝える歴史
だったとも言える。
印刷が普及すれば、知識は一部の人間だけのものではなくなる。
インターネットでは、それが地球規模になった。
そしてAIになると、蓄積された膨大な情報を整理し、組み合わせ、瞬時に提示するところまで来ている。
この先、知識の進歩の速度は、人間自身が理解する速度を超えていくのではないか。
そんなことまで考えてしまう。
AIが将来どのような存在になるのかは分からない。
ただ、知識を伝達する速度が、人類史上かつてないほど速くなっていることは確かだろう。
中世の版木を見ながら、数百年後のAIについて考える。
歴史博物館という場所で、そんな時間の飛び方ができるのも面白い。
しかし、同じ時代に「飢えている人」がいた
ところが、第2展示室でもう一つ強烈に印象に残った展示があった。
中世に書かれた日記や記録である。
展示には受話器のような装置があり、それを取ると、当時の文章を現代語にしたものが男性の声で聞こえてくる。
古い文字をガラス越しに眺めているだけなら、
「昔の史料だな」
で終わってしまう。
しかし、人間の声として聞こえてくると、突然その距離が縮まる。
何百年も前に起きた出来事が、まるで少し前に起きた事件のように感じられる。
そこで語られていたのは、華やかな中世ではなかった。
税を取り立てられる。
作った米を持っていかれる。
食べるものがなくなる。
飢えが広がる。
人々は、生きるために本来なら食べないようなものまで食べなければならなくなる。
そして盗みが起きる。
私が展示で聞いた記録では、盗みをした者を追っていった先に家があり、そこには母親と子どもたちがいた。
事件の中で人が殺され、それをどう裁くのかという問題になっていく。
細かい経緯については、資料を改めて確認しなければならない。
しかし、その話を聞いて強烈に残ったものがある。
「犯罪」という一言だけで、その人間を理解できるのだろうか。
ということである。
食べるものがなければ、人間はどこまで理性的でいられるのか
盗みはいけない。
人を殺すこともいけない。
それ自体は当然のことである。
しかし、もし自分の家に食べ物がなく、
子どもが腹を空かせ、
税として作物を取り上げられ、
明日生きていられるのかさえ分からない状況だったら。
人間はどこまで冷静に、
「法律を守ろう」
と考えることができるのだろう。
だからといって、飢えていれば犯罪が許されるという話ではない。
ただ、歴史を理解するとき、
「悪いことをした人間がいた」
だけでは不十分なのだと思う。
その人がどんな社会の中で生きていたのか。
何を食べていたのか。
どのくらい税を取られたのか。
家族はいたのか。
何を失っていたのか。
そこまで見て初めて、一人の人間が見えてくる。
文明の発達と、人間の幸福は同じではない
ここが、第2展示室を見て一番考えさせられたところかもしれない。
同じ時代に、
印刷技術が発達している。
寺院が立派な経典を作っている。
市場が栄えている。
商人が各地を移動している。
海外と貿易している。
美しい工芸品が作られている。
その一方で、
食べるものがなくて盗みをする人もいる。
文明が高度になることと、一人一人の人間が幸福になることは同じではない。
これはかなり重要なことだと思った。
新しい技術ができた。
経済が成長した。
国が強くなった。
都市が発展した。
それだけを見れば、歴史は右肩上がりの進歩に見える。
しかし、その陰で誰が負担していたのか。
誰が飢えていたのか。
誰が戦争へ送られたのか。
誰の名前も記録されなかったのか。
歴史の見え方は、それによってまったく変わってくる。
市場には、現在のスーパーと同じ光景がある



一方、「市場と商人」の展示はかなり楽しかった。
人が集まる。
物が並ぶ。
売る人がいる。
買う人がいる。
荷物を運ぶ人がいる。
これを見ていると、基本的には現在の商店街やスーパーとそれほど変わらない。
私は鮮魚で働いているので、特に海産物の流通に目が行く。
魚や昆布、アワビなどが、その土地だけで消費されるのではない。
船で運ばれる。
港へ着く。
商人が扱う。
内陸へ運ぶ。
そこで別の商品や貨幣と交換する。
現在でいえば、
産地があり、
物流センターがあり、
市場があり、
店舗があり、
客が買う。
仕組みは巨大化し、高度になった。
しかし、人間のやっていることはかなり似ている。
「ここにあるものを、必要としている別の場所へ運ぶ」
商売とは、昔からそういうものだったのだ。
海産物が日本をつないでいた

昆布やアワビなどの海産物が、遠距離交易の重要な商品となっていったことも面白かった。
今では昆布やアワビというと、正月料理や祝い事を思い浮かべる。
しかしそれ以前に、保存性があり、価値があり、遠くまで運ぶことができる重要な商品だった。
海産物が地域と地域をつなぐ。
さらに海外ともつながる。
鮮魚で働いている自分からすると、これは非常に興味深かった。
普段は、
「今日はこれを何パック売る」
「この魚はいくらで出す」
という視点で商品を見る。
しかし歴史の中で見ると、水産物は食料であると同時に、人間と地域を結びつける経済資源だった。
魚屋の仕事まで、少し違って見えてくる。
三線一つの中にも、世界が入っている

沖縄の三線も印象に残った。
木材。
弦。
蛇の皮。
一つの楽器を作るための材料が、必ずしも一つの地域ですべて揃うわけではない。
琉球は日本列島、中国、東南アジアなどを結ぶ交易の中にあった。
つまり三線一つの中にも、複数の地域の自然と技術が入っている。
これは現代とほとんど同じだ。
スマートフォン一台でも、一つの国だけでは作れない。
鉱物を掘る場所。
半導体を作る場所。
設計する場所。
組み立てる場所。
それぞれが違う。
一つの商品を分解していけば、世界中へつながっている。
中世の三線を見ても、その原型のようなものがすでにある。
異質なものが混ざることで、新しいものが生まれる


交易について見ていて思った。
一つの場所だけで閉じている社会よりも、外から人や物や技術が入ってくる社会の方が、変化する力は大きい。
当然、衝突も起きる。
文化も違う。
考え方も違う。
利益もぶつかる。
しかし、その摩擦の中から新しいものが生まれる。
音楽。
食文化。
武器。
工芸。
宗教。
商売の仕組み。
さまざまなものが、人間同士の接触によって変化していく。
今なら「多様性」という言葉を使う。
しかし、人間はずっと昔から、異なるものが混ざり合うことによって社会を強くしてきたのかもしれない。
地球儀を見ると、人間の世界が突然大きくなる



展示されていた地球儀も面白かった。
村の外を知らなかった人間がいる。
隣の国を知る。
海の向こうに別の国があると知る。
さらに地球そのものが一つの球体であることを知る。
人間の頭の中の世界が、どんどん大きくなっていく。
地球儀は単なる地理教材ではない。
「自分たちの知らない世界が存在する」ことを可視化した道具
なのだと思う。
知らない土地がある。
そこには何があるのか。
どんな資源があるのか。
どんな人間がいるのか。
何を交換できるのか。
その好奇心が、交易にも、航海にも、支配にもつながっていく。
信長はなぜ新しいものを使えたのか
戦国時代まで来ると、織田信長のことも考えた。
信長にはさまざまな側面がある。
しかし、新しい技術や制度を積極的に利用した人物であることは確かだろう。
鉄砲。
海外との接触。
キリスト教勢力との関係。
商業。
当時の常識にこだわらず、
「使えるものは使う」
という姿勢があった。
歴史を後から見る人間は、
「先見の明があった」
と簡単に言える。
しかし、その瞬間には、その技術が本当に役に立つかなど分からない。
新しいものを受け入れることにはリスクがある。
それでも取り入れる。
これは現代の組織にも通じる。
世界が変わるとき、過去の成功体験だけにしがみつけば置いていかれる。
信長の強さの一つは、外から来たものを、自分の力へ変える能力だったのではないか。
ただし「強い国」が必ず幸せな国とは限らない
しかし、そこで先ほどの飢えの記録に戻る。
鉄砲がある。
城がある。
市場がある。
交易がある。
印刷がある。
立派な文化がある。
それでも、人は飢える。
この矛盾が非常に重要だと思った。
国が強くなること。
経済が大きくなること。
新しい技術を持つこと。
それらは確かに重要である。
しかし、
それによって、その社会の末端にいる人間まで幸福になるとは限らない。
これは中世だけの話だろうか。
現代でも、
GDPが伸びる。
株価が上がる。
AIが発達する。
大企業が巨大になる。
技術が進歩する。
それでも生活が苦しい人はいる。
文明の「総量」と、一人の人間が感じる幸福は別物なのである。
中世を見ていて、現代のことまで考えてしまった。
第2展示室で見たのは「つながる力」と「取り残される人」だった
第1展示室の記事では、
4万年前から、人間はそれほど変わっていない
と書いた。
食べたい。
生きたい。
愛されたい。
死ぬのが怖い。
家族を守りたい。
祈りたい。
豊かになりたい。
そういう人間の根本は、驚くほど変わっていない。
では第2展示室で何が変わったのか。
私は、
人間同士を結ぶネットワークが、急激に複雑になった
のだと思う。
文字が人をつなぐ。
印刷が知識をつなぐ。
宗教が心をつなぐ。
市場が人と物をつなぐ。
船が地域をつなぐ。
交易が国と国をつなぐ。
地図が世界をつなぐ。
そして現在では、インターネットが世界中の人間をつなぎ、AIが膨大な知識をつなごうとしている。
文明とは、人間と人間の間に張り巡らされた線が、少しずつ増えていくことなのかもしれない。
しかし、線が増えれば、それですべての人が救われるわけではない。
繁栄する都市の隣で、飢える人がいる。
立派な経典が印刷される時代に、食べ物を盗まなければならない人がいる。
美しい工芸品が作られる一方で、戦争も続いている。
その両方が人間の歴史なのだ。
歴史を見るということ
歴史というと、つい将軍や天皇や武将を覚えるものだと思ってしまう。
何年に幕府ができた。
誰が誰を倒した。
どの戦争が起きた。
しかし歴博を歩いていると、それだけでは歴史にならないことが分かる。
本当にそこにいたのは、
米を作った人。
税を取られた人。
飢えた人。
盗んだ人。
裁いた人。
本を刷った人。
市場で物を売った人。
海を渡った人。
楽器を作った人。
神に祈った人。
そして、そのほとんどは名前すら残っていない。
それでも、その人たち一人一人が生きた結果として、現在がある。
国立歴史民俗博物館の第2展示室を歩いていて感じたのは、
文明とは、進歩だけでできているのではない
ということだった。
知は広がった。
世界は広がった。
人間同士はつながった。
けれど、その裏側にはいつも、取り残された人間もいた。
そしておそらく、それはAIの時代になっても変わらない。
技術がどこまで発達するのかを見ることも重要だ。
しかし同じくらい、
その技術の恩恵を誰が受け、誰がそこからこぼれ落ちるのか
を見る必要がある。
数百年前の飢えた親子について語る声を、博物館の受話器から聞きながら、そんなことまで考えた。
中世の話を聞いているはずなのに、不思議なくらい現在の話に聞こえた。


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