
最近、気づけばあらゆる知的作業にAIを通すようになっている。文章を書くときも、本を読むときも、ふとした疑問に対する答えさえもChatGPTに聞いてしまう。
――でも、ふと怖くなることがある。
「今の自分の考えって、本当に自分のものなのか?」
AIが出す答えは、たしかに賢く、やさしい。まるで私の心を読んでいるように思える。でも、どこかに“幻覚(ハルシネーション)”の気配を感じることもある。それが本当の知性なのか、それともAI特有の「もっともらしい嘘」なのか、確信が持てなくなるのだ。
だから私は、今でも“読書”をやめられない。
人の手で紡がれた言葉を、たくさん読むことで、自分の中に「裏付け」を蓄積し、AIに頼らずとも語れる言葉の力を持っていたいと思っている。
気がつけば、私の思考の半分以上がAIとのやりとりになっていた。
これは果たして「進化」なのか、それとも「退化」なのか?
未来は、もっと極端になるだろう。AIの知能が今よりさらに高まれば、知的労働者と呼ばれる人たちの仕事さえ、代替されていく。
だけどそれを「恐ろしい」と思う一方で、どこかワクワクしてしまう自分がいる。
なぜなら今、私たちはまるで“現代のルネサンス”を迎えているような時代に生きているのだから。
ただし、この革命を正しく使う人間がいれば、悪用する者もまた現れる。それが人類の歴史だった。
果たして、人類はこの先、AIと共にどこへ向かうのか?
NotebookLMのようなツールを使って、個人AIが生まれ、それぞれが情報を交換し始めたとき――それは「人類滅亡の予兆」かもしれない。でも、同時に「最大の発明」になるかもしれないのだ。
グーグルとマイクロソフトが本気で手を組まないと、人類のAI進化は限界がある。これは、オザケン(小沢健二)さんが指摘していた通りだ。
AIはなぜ生まれたのか?
人類が“より高い景色”を見るため、つまり、他者より優位に立つため。これは競争でもあり、同時に希望でもある。努力の結果を求めるのは、人間の本能なのだ。
世界のすべては「カオス」から始まり、「コスモス」に至る。
発展し、飽和し、やがて崩壊し、また再生する。
これはAIだけでなく、日本史、世界史、さらには宇宙の摂理でもある。
近所の接骨院の数が増えすぎて、生き残るのは一部だけになる現象も、それを物語っている。飽和すれば淘汰が始まる。どんな業界でも、どんな社会でも、それは避けられない。
私の職場も、成熟産業の中で、今まさにその波に直面している。
「なんで、もっと真剣に仕事の未来を考えてこなかったのだろう」
そんな悔しさを胸に、私はため息をつく。
でも、そのため息さえも、宇宙のエントロピーを増大させているのだとしたら――
きっと、神はそんな私を、静かに笑って見ているのだろう。
コメント