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統合失調症、幻聴、幻覚…それでも生きる! 大人が震える本当の青春映画『僕と頭の中の落書きたち』


■映画概要
2020年に公開されたアメリカの青春ドラマ映画『僕と頭の中の落書きたち』(原題:Words on Bathroom Walls)。
監督はトール・フロイデンタール、主演はチャーリー・プラマーとテイラー・ラッセル。
統合失調症と診断された高校生アダム・ペトラゼリ(チャーリー・プラマー)が、新たな学校に転校し、病を隠しながら日々を過ごしていく。出会った同級生マヤ(テイラー・ラッセル)や母親、母の再婚相手ポール(ウォルトン・ゴギンズ)との関係を通じて、アダムは料理人になる夢に向かいながら、自分の病と真正面から向き合っていく。
リアルに描かれる統合失調症の症状や、関わる人々との複雑かつ温かい人間関係が見どころだ。

■あらすじ
授業中に幻覚を見て事故を起こした高校生アダムは、統合失調症という厄介な病を抱えつつ、新しい学校へ転校することに。彼を待つのは、彼自身の幻覚から生まれる“頭の中の落書きたち”との壮絶な闘いと、そこに寄り添う家族や友人たち。
母親をはじめ、母の再婚相手ポールはどうにかしてアダムを支えようとするが、思春期特有のもどかしさと病気ゆえの不安定さが重なり、彼の心は一筋縄ではいかない。そんなアダムが出会ったのが、聡明で明るく、どこか孤独を抱えたクラス主席の少女マヤ。彼女の思わぬ“裏バイト”や経済的な苦悩は、一見きらびやかに見える“青春”の現実を鋭く浮かび上がらせる。
アダムは、マヤとのやりとりや自分の幻覚との格闘を通して、自分が本当に目指したい料理人の道へ向かおうと踏み出していくが、病が突きつける壁は想像以上に高い。そんな中、トイレの落書きに“神は人を救う、それも条件付きで”と書かれているのを目にしたアダムが、苦笑いを浮かべるシーンが印象的だ。――果たして彼は、自分らしい“青春”と夢を手に入れることができるのか?

■見どころ1:リアルすぎる統合失調症の描写
アダムの目に映る幻覚は、いわゆる“映画のファンタジー”ではなく、観る者に“もし自分だったら”と迫ってくるほどリアルに描かれている。統合失調症の恐ろしさも、アダムの必死の抵抗も、この作品では等身大だ。観客は、彼の内側で繰り広げられる絶望と希望のせめぎ合いを、手に汗握りながら見守ることになる。

■見どころ2:複雑で温かい人間関係
母親やポールとの家庭事情、マヤとの微妙な距離感、さらにはアダムを取り巻くクラスメイトたちとの絡み――そのすべてが「家族」「友情」「恋愛」という普遍的なテーマを映し出す。とりわけ、母の再婚相手であるポール(ウォルトン・ゴギンズ)の存在が、ただの“義父”にとどまらず、アダムが求める「居場所」と「受容」をどう体現するのか、目が離せない。

■分裂気質だからこそ感じるリアリティ
実は、私自身も“分裂気質”で、ひどいときにはアダムほどではないにしろ、人を攻撃してしまうことさえあった。落ち着いた後に“もう取り返しがつかない”と気づき、目の前が真っ暗になることも。だからこそ、アダムのように幻聴・幻覚に常に苦しめられる統合失調症という病がどれほど大変か、身をもって想像してしまう。
「愛情ある人に救われることはない」と思いながらも、「周囲の支えが病を克服する力になるのは真理だ」というのは、何とも皮肉だが現実だろう。ときに人は支えを拒絶するが、結局はそれが一番の助けになる――こうした矛盾も含め、この映画は痛いほどリアルだ。

■“青春映画は嘘くさい”? 大人目線での苦々しさ
青春映画を観ていると、つい「社会人じゃないし、結局大人に守られているだけの世界でしょう?」と思ってしまうのも事実だ。現実の社会は、お金がすべてと言わんばかりの厳しさがある。高校野球のヒーローだった頃に味わった“ちやほや”や“ほめそやし”――あれも卒業してしまえばただの思い出。残酷なほど、社会にはそんな栄光など通用しない。
それでも、本作『僕と頭の中の落書きたち』が“嘘”に見えにくいのは、統合失調症という生々しい現実が土台になっているからだろう。主人公が見ている教室の風景や、周囲のリアクションが、どこか大人の目から見ても「これは嘘じゃないな」と感じさせるシビアさを持っている。

■愛すべきマヤの存在と、最高のキスシーン
アダムの転校先で出会うマヤは、可憐な黒人の少女でありながらも、クラス主席を狙うほど頭脳明晰。経済的な事情を抱えて裏のバイトをしている姿は、フィクションのようでいて実にリアルだ。彼女がアダムの病を知っても動じないのは、表面上の“優しさ”ではなく、人としての本質的な強さがあるから。
終盤、嘘をついていたことよりも「私にそれを決めさせなかったこと」に怒るマヤ。ここに彼女の“ブレなさ”やリアルな人間性を感じる。
そして、あの嫌味のないキスシーン! 甘いはずのロマンスが、幻聴や幻覚と常に背中合わせであるアダムにはどれだけ救いになるのか。切なくも最高の瞬間だ。

■幻聴や幻覚は消えなくても、“乗り越えよう”とする青春
最後には、“治る”という完璧な終わり方ではなく、あくまで「これからも幻覚や幻聴はやってくるだろうけれど、乗り越えていこう」という姿勢が示される。実際に病を抱える人間にとって、これほど勇気づけられるラストはないのではないか。“青春”とは、どんな苦しみや痛みがあっても“まだ先がある”と思える瑞々しさを持っているという事実を、本作は教えてくれる。

■結論:大人にこそ突き刺さる“嘘じゃない青春映画”
「青春映画ってどこか嘘くさい」。そんな偏見を持つ大人でも、『僕と頭の中の落書きたち』はグッと心を掴まれるはずだ。統合失調症という厳しい現実が、甘いだけのドラマを粉々に打ち砕き、本当の“人間の弱さと強さ”を映し出すからにほかならない。
私は今後、純情可憐な青春映画といえば真っ先にこの作品を薦めたいと思う。主人公アダムの苦しみがこれほどリアルに迫ってきて、なおかつ観終わったあとの爽やかさを感じさせる映画は、そう多くはない。嘘と本当が混在する青春の中で、本当に嘘じゃないものは何なのか。ぜひあなたの目で確かめてほしい。

「この映画ほど、青春映画として見ごたえあるものは少ない。」
神は人を救うのか。病は克服できるのか。青春は本当に尊いのか。
あなたの“頭の中の落書き”が何を語るのか、一度試してみる価値は大いにある。

以上が、本作『僕と頭の中の落書きたち』のまとめと、私自身の痛感混じりの感想だ。
大人の皆さん、もう一度“幻覚”と“青春”の狭間に迷い込んでみませんか?
――これこそ、あなたが本当に観るべき“リアルすぎる嘘の世界” かもしれない。

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