【2026年】ルーヴル美術館展 ルネサンス初日レポ|混雑・待ち時間と《美しきフェロニエール》の感想

国立新美術館で開催されたルーヴル美術館展 ルネサンスの会場写真

9月9日、国立新美術館で開幕した「ルーヴル美術館展 ルネサンス」に行ってきた。

初日ということもあって、ものすごい人だった。

開館15分ほど前に着いたのだが、すでに長蛇の列。入場まで約1時間。ようやく会場に入っても人、人、人で、作品を見るのもひと苦労だった。

そして最後のレオナルド・ダ・ヴィンチ《美しきフェロニエール》の前では、さらに1時間ほど並んだ。

それでも、見に行ってよかったと思う。

見終わって一番強く残ったのは、ルネサンスとは「昔の偉大な芸術の時代」というだけではなく、もう一度、人間という存在を正面から見ようとした時代だったのだ、という感覚だった。

人と人は、結局、話さなければならない

《ヴェネツィア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督》

最初の「旅」の章で強く印象に残ったのが、《ヴェネツィア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督》だった。

青い空。異国の衣装。建物。人々の動き。

500年以上も前の異国の出来事なのに、不思議なくらいその場が生々しい。

ヴェネツィアとイスラム世界との交易や外交を背景にした場面なのだが、僕が見ていて考えたのは、もっと単純なことだった。

人間は一人では生きていけない。

だから他者と関係を結ぶ。商売をする。協力する。

けれど、それぞれに利害もあればエゴもある。政治的な思惑もある。当然、関係に亀裂が入ることもある。

するとまた向き合い、話し合い、関係を修復しようとする。

絵の中の人々がやっていることは、現代の会社でも、国家間でも、家族でも同じではないか。

人と人は、やはり話さなければならない。

そんな当たり前のことを、500年前の外交の場面を描いた絵から思わされた。

科学と神が、まだ分かれていなかった時代

天文機器や時計などの展示も面白かった。

精密な機械の表面に、旧約聖書の物語や宗教的な図像が刻まれている。

現代の感覚では「科学」と「宗教」は別々のもののように考えがちだが、当時の人々にとっては、それほど単純に分かれていなかったのだろう。

星の動きを測ること。時間を測ること。方角を知ること。

自然界の仕組みを正確に理解していくこと自体が、神のつくった世界の秩序に近づく行為でもあったのではないか。

ドラム型の時計を見ても思った。

これほど精巧なものを人間がつくれる。

技術によって、人間は世界を知ることができる。

そこには科学技術に対する、現在とは少し違った種類の畏敬の念がある。

やがて航海や交易が拡大し、世界そのものを大きく変えていくヨーロッパ。その遠い出発点に、こうした「人間は世界を理解できる」という強い信念があったのではないか、とも思った。

本物を見ていないのに、「本物」になったサイ

アルブレヒト・デューラー《サイ》

そして、非常に面白かったのがアルブレヒト・デューラーの《サイ》だった。

デューラーは、実際のサイを見ていない。

1515年にリスボンへやってきたサイについての文章と素描をもとに、想像を交えながら木版画を制作した。それにもかかわらず、その《サイ》は大量に複製され、長いあいだヨーロッパの人々に「これがサイだ」と思われるほど大きな影響を与えた。

よく見ると、おかしい。

皮膚は鎧のようで、実際のサイにはないものまで付いている。

なのに、不思議なくらい「サイらしい」。

そこで考えた。

現実だけが、人間の世界をつくっているわけではないのではないか。

人間は、誰かから聞いた話を想像する。

それを絵にする。

他の人が見る。

複製される。

やがて、その想像されたものが、多くの人にとっての「現実」になる。

考えてみれば、小説も映画も宗教も国家も、そして今のインターネットやバーチャルな世界も、どこかそういうところがある。

フィクションは現実の反対側にあるものではない。

人間にとって、想像することそのものが現実の一部なのだ。

《サイ》を見ながら、そんなことまで考えてしまった。

肖像画とは、自分を未来へ送る装置だったのかもしれない

ヤン・ファン・スコーレル《32歳の男性の肖像》

ルネサンスでは肖像画も大きく発展する。

ヤン・ファン・スコーレルの《32歳の男性の肖像》では、男が自分の年齢を示す紙を持っている。

「私は32歳で、ここに生きている」

そう未来に伝えているようにも見える。

今ならスマートフォンで一秒もかからず写真を撮れる。

しかし当時、肖像画を描いてもらえるのは主に王侯貴族や知識人、裕福な市民たちだった。

職業や社会的な地位を示すものを一緒に描き込み、自分がどういう人間であるのかまで後世へ残そうとする。

エル・グレコの《アントニオ・デ・コバルビアス・イ・レイバの肖像》などを見ても、その人が社会の中で積み重ねてきたものまで顔に宿っているように感じられる。

エル・グレコ《アントニオ・デ・コバルビアス・イ・レイバの肖像》

一方で、少し滑稽にも見える。

人間は、自分の功績を残したい。

王は凱旋する姿を残し、権力者は騎馬像をつくらせる。

「私は偉かったのだ」と未来の人間に伝えたい。

そこには人間の虚栄心もある。

少し子供っぽくすらある。

けれど、皮肉なことに、その欲望があったからこそ、500年後の僕たちは彼らの顔を見ることができる。

人間の「残したい」という欲望そのものが、歴史をつくってきたのかもしれない。

気持ち悪いほどリアルな自然

蛇や蛙、魚や貝を写実的に表した田園風陶法の楕円水盤

「田園風陶法」による楕円水盤も忘れられない。

皿の上に、蛇や蛙、魚や貝などがいる。

いる、というより、本当にそこに生息しているように見える。

実際の生物などから型を取り、自然の姿を驚くほど生々しく再現していく技法だった。

見事なのだが、薄気味悪い。

僕の近くで見ていた人が、

「これ、夢に出るね」

と言っていた。

本当にその通りだった。

しかし、それもまたルネサンスなのだと思う。

自然をただ美しいものとして眺めるだけではない。

触る。

観察する。

型を取る。

再現する。

「本物とは何なのか」を徹底して見ようとする。

その執念は、芸術であると同時に科学にも近い。

愛する者を、死なせたくない

そして、華やかな王侯貴族の世界とはまったく違うところで足が止まった。

ボンネットとひだ襟を身につけた、幼い少女の像だった。

裕福な家庭で愛されながら、幼くして亡くなった少女。その面影を残そうとしてつくられたものだという。

それを見た瞬間、以前、旅先で見かけた幼くして亡くなった子どもの立派な墓を思い出した。

どれだけお金があっても、どれほど社会的な地位があっても、愛する人の命を守れないことがある。

まして、まだ四歳や五歳の子どもだったなら。

親は何かを残したいと思うだろう。

顔を残したい。

名前を残したい。

この子が確かにこの世にいたことを残したい。

墓をつくる。

彫像をつくる。

肖像を描かせる。

それは虚栄とはまったく違う。

忘れたくないから残すのだ。

芸術には、死に抵抗するという役割もあるのかもしれない。

500年前の親の悲しみと、現代の親の悲しみは、おそらくほとんど変わらない。

そこには時代を超えた、人間のどうしようもない愛情がある。

ミケランジェロの目

《ミケランジェロの肖像》

《ミケランジェロの肖像》も強烈だった。

何かに取りつかれているような目をしている。

天才という言葉から連想する華やかな姿ではない。

むしろ頑固な職人のようだった。

もっと彫りたい。

もっと正確に。

もっと先へ。

そんな声が目の奥から聞こえてきそうだった。

芸術家とは、きれいなものを生み出す人である前に、何かから逃れられなくなった人なのかもしれない。

そして、ダ・ヴィンチだけは生きていた

レオナルド・ダ・ヴィンチ《美しきフェロニエール》

最後に《美しきフェロニエール》を見た。

1時間近く並んだ。

ようやく絵の前まで行く。

やはり、圧倒された。

以前、東京国立博物館でレオナルド・ダ・ヴィンチの《受胎告知》を見たときにも感じたのだが、ダ・ヴィンチの人物には奇妙なほどの生命感がある。

「上手に描かれている」というのとは少し違う。

生きているのだ。

今にも動き出しそうなのだ。

《美しきフェロニエール》の女性も、こちらを見ているようで、完全にはこちらを見ていない。

視線の焦点が微妙に外れている。

何を見ているのだろう。

何を考えているのだろう。

誰を待っているのだろう。

見ているこちらが、勝手に彼女の内面を考え始める。

それがすごい。

ほかの作品を見ているときには、

「うまいな」

「細かいな」

「きれいだな」

と思うことがある。

ところがダ・ヴィンチの前では、いつの間にか技術そのものを忘れている。

「この人は何を考えているのだろう」

と考えてしまう。

つまり、絵を見ていたはずなのに、途中から一人の人間と向き合っている。

そこが違うのだと思う。

写真のように正確だからリアルなのではない。

そこに「意識がある」と感じさせるからリアルなのだ。

天才という人間は本当にいるのだな、と思った。

500年前の人々がレオナルドの作品を初めて見たとき、どれほど驚いたのだろう。

現代の僕でさえ、絵の前で立ち止まってしまうのだから。

500年前の人間と、僕たちはあまり変わらない

「ルーヴル美術館展 ルネサンス」を見に行ったはずなのに、帰る頃にはずっと「人間とは何だろう」と考えていた。

人は旅をする。

知らない人と出会う。

商売をする。

争う。

そして、また話し合う。

科学や技術によって世界を理解しようとする。

見たことのないものを想像する。

フィクションをつくり、それをみんなで共有する。

自分の顔を残したがる。

功績を未来へ伝えたがる。

そして愛する者を失えば、その面影だけでも残そうとする。

他人の顔を見れば、その視線の奥に何があるのか知りたくなる。

500年経って、機械も社会も暮らしも大きく変わった。

けれど人間そのものは、案外それほど変わっていないのかもしれない。

ルネサンスとは、古代文化が「再生」した時代というだけではない。

人間がもう一度、人間という不可思議な存在を見つめ直した時代だったのではないか。

そして500年後の僕もまた、六本木の美術館で、一枚の絵の中にいる女性の目を見ながら、

「この人はいったい何を考えているんだろう」

と考えている。

そのこと自体が、なんだかとても面白かった。

翌日に見た現代彫刻については、ロン・ミュエク展の感想にまとめています。

ルーヴル美術館展 ルネサンス鑑賞時に国立新美術館で撮影した写真
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この記事を書いた人

鮮魚の現場で働きながら、美術館・博物館、文学、映画、旅、仕事や人生について、実際に見たこと・経験したことを自分の言葉で記録しています。検索でたどり着いた方にも、何か一つ持ち帰れる文章を目指しています。

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