日本科学未来館に行って気づいた──「未来」を覗くことは、結局“いまの自分”を見つめる行為だった

ムセス大王展を観た足で、日本科学未来館へ向かった。
入館したのは午後1時30分。閉館は5時。
「4時間半もあれば余裕だろう」──そう思っていたのは、まったくの誤算だった。

未来館の真骨頂は、後述する巨大な展示だけではない。
上階にあるドームシアターの存在を忘れていたのだ。
これが“未来館タイム”を一気に奪っていく。


目次

■ ドームシアターの魔力:30分×数本で、時間は一瞬で消えていく

1本目は、「アニメーションの成り立ち」を題材にした作品。
リングの内側に描かれたボクサーが、コマを連続して見せるだけで“命を宿す”──
アニメーションの原点を視覚的に理解できる。
そのシンプルさが妙に胸を打つ。

ところが、この映像のあと、突然猛烈な眠気に襲われ、少し眠ってしまった。
暗闇・静音・非日常……眠るために用意された環境なのでは?と思うほどだ。


■ 「9次元の男」──未知の物理と物語が、3D映像で絡み合う名作

次に観た作品が圧巻だった。
宇宙の始まり、ビッグバンを説明する公式はいまだ発見されていない。
その“未解決の領域”を題材にした「9次元の男」。

3D眼鏡をかけると、映像がこちらの視界に迫ってくる。
9次元世界を“3Dで見せる意味”が物語の中で伏線として回収される構成は見事で、
科学とアートの融合として非常に完成度が高い。

受賞作だと聞いていたが、実際に体験すると納得しかない。


■ ミクロの誕生を描く「バースデイ」──原子核の向こうへ

さらに、「バースデイ」では原子核よりも小さな領域が描かれていた。
こちらも3D映像で、学術性は高い。
ただ、“物語と科学の融和”という点では、やはり「9次元の男」に軍配が上がる。

気づけば、上映を観る → 展示階に戻る → また次の上映へ向かう、
このループを繰り返し、あっという間に時間が消えた。


■ 3階・4階:未来をつくる技術展示、そして万博へつながる思い

展示フロアも想像以上に深い。
万博のパビリオンを手掛けた石黒氏・落合氏の取り組みが紹介されており、
「科学が社会をどう変えるのか」という視点で眺めると一段と面白い。

特に印象的だったのが、未来のコミュニケーションをシミュレーションする映像展示。
郵便・電話・自動車など、五つの進化を辿りながら、未来の形を予測していく。

ただ、100年前にスマホの存在を予測できた人がいなかったように、
テクノロジーと経済は予測不可能な領域なのかもしれない。
その“予測不能性”こそが、人間の未来の余白なのだろう。


■ 万博との違い──「一日の重み」が非日常をつくる

展示の質だけで見れば、未来館は万博を上回る部分もある。
しかし、どうしても万博のあの“空気感”を思い出してしまう。

パビリオン前に並ぶ人たちの真剣な表情。
“今日しかない”という希少性。
巨大な屋根リングの下で味わった、あの不思議な一体感。

未来館は素晴らしい場所だ。
それでも、あの万博の幸福感──あれは代替できない。
あの空間では、ひとりでいるのに、ひとりではない感覚があった。

「また万博に行けたらいいな」
ふと、そう思ってしまう。

もちろん、何年後かの日本が、
「万博どころじゃない」と叫んでいる可能性もある。
そのくらい、私たち一人ひとりの未来も、国の未来も不確定だ。


■ 生命科学の部屋で突きつけられた“老い”と“生存”のリアル

4階へ上る途中、デジタル地球儀「ジオ・コスモス」が見えた。
生きているかのように回転し、時折ショートムービーが流れる。

その先の展示室に入ると、再生医療のシミュレーションが始まった。

大手企業で部長職に就き、高収入を得ていた男性。
腎臓を患い、やむなく退職し、実家の肉屋を手伝う生活に。
人工透析の時間が、彼の残り時間を奪っていく。

そこで提示される選択肢は──
自分の細胞からIPS細胞を作り、豚に移植して腎臓を育て、それを移植する
という未来の医療。

危険性もあるだろう。
犠牲の歴史の上に成り立つ技術かもしれない。
それでも、これは“メイドインジャパンの希望”の一つだ。

円安や少子化で国の未来が揺らぐ中、
こうした分野にこそ資金を投入すべきではないかと強く思う。


■ 展示を見ながら、ふいに自分の“残り時間”を意識した

体調が悪いわけではない。
ただ、最近、月日の経つ速さが増してきた気がする。
このまま死まで一直線なのでは、とふと思う瞬間がある。

結婚もしていない。
長らく大きな病気もしてこなかったが、
年齢的にどこかガタが来てもおかしくない。

未来館で生命科学の展示を見ていると、自然と
「この世で自分は何を残せるのか」
という問いが浮かぶ。

しかし同時に、
「どうせすべて無に帰するんだろうな」
という、ニヒルな感覚も湧き上がる。

子どもがいないからだろうか?
いや、人間なんて皆同じだ。
食べて、寝て、排泄して、煩悩を抱えながら生きている。
その点では、誰一人として大差はない。

その“どうしようもなさ”を抱えながら、
それでも未来を覗き込みたい。
日本科学未来館は、そんな矛盾をそのまま肯定してくれる場所だった。


■ 結論:未来館は「未来」ではなく「今の自分」を映し出す鏡だった

未来館の展示は、単なる科学説明ではない。
そこにあるのは、

  • 私たちの暮らし
  • 老い
  • テクノロジーの限界
  • 人間の欲望と弱さ
  • 社会がどこへ向かうかという不安

これらを“見て見ぬふりできない形”で提示する鏡だ。

そしてその鏡を覗き込むと、結局見えてくるのは
「未来」ではなく「いまの自分」
なのだと思った。

また行きたい。
そしてその時には、今日とは違う“今の自分”が、
また違う未来を見つめるのだろう。

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この記事を書いた人

大日如来参上のブログへようこそ。ここでは、性の本質、結縁の道、聖地巡礼、社会の問題、舞台や映画のレビュー、そして智慧の書など、多様なテーマを通じて、内なる美と智慧を探求します。
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