sora2に触れてわかった──映像の時代は、もう“真実”を映していない。     AIが作る「ホームビデオのような嘘」が、私たちの現実を侵食している

AI動画生成モデル「sora2」に触れて、私は本気でぞっとした。
プロンプトを日本語で入力してから、わずか1分もたたないうちに、思い描いた映像が完成する。そのクオリティは、ひと昔前の「いかにもAI」な映像とはまるで違う。もはや、隅に小さく「sora」と印字されていなければ、人の手で作った映像と区別がつかないレベルだ。記事の最後に、私の動画をアップしてあるので、ぜひ参考までにご視聴願いたい。

目次

AIが描く「理想の現実」──1分で生まれる映像の衝撃

試しに、「ピットブルと日本人の赤ちゃんがじゃれ合う動画」を生成してYouTubeにアップしてみた。すると、たった数時間で5,000PVを超えた。
ブログでどんなに思索を重ねても、誰の目にも留まらないことが多いのに、10秒のAI動画は多くの人が見て、コメントまで残してくれる。

ありがたい反面、複雑な気持ちが残った。
結局、人は「考えるもの」より、「感じるもの」に圧倒的に惹かれてしまうのだ。

万博でも感じた“思考より映え”の時代

大阪・関西万博のドイツ館では、循環型経済をテーマに「サーキュラーちゃん」というキャラクターが登場していた。
だが、訪れた多くの人は、その思想ではなく「かわいい」「写真映えするかどうか」に夢中になっていた。

思考より感覚。内容よりもビジュアル。
AI動画が広まるこの時代は、まさにそうした“映え至上主義”の延長線上にあるのだろう。

読まれない文章と、再生される映像

私は長年、ブログを「内面の整理」として書いてきた。
はてなブログ時代は、コミュニティの中で返事も多く、言葉に反応があった。
だがWordPressに移ってからは、風俗嬢の体験記しか読まれなくなった。

ソープランドで恋をしたあの頃、溺れるような心情を言葉にしたときだけ、人は反応してくれた。
つまり、他者にとって「必要な物語」でなければ、誰も読まない。PVも伸びず、プロにもなれない。
それでも書き続けるのは、言葉が私にとって“呼吸”のようなものだからだ。

soraが映す「ありそうな日常」こそ、最も危険

soraで作った動画の中で、最も反応が大きかったのは、奇抜な作品ではなく「自然で、ホームムービーのような映像」だった。
AIがつくる“ありそうな日常”に、人は最も安心し、最も騙される。

横浜万博に向けて、「原子爆弾がゼリー状に炸裂して砂漠を緑に変える──“世界平和の原爆”」という映像も投稿してみたが、超レッドオーシャン化したSNSで名を上げるのは容易ではなかった。
だが、その過程で気づいた。
AIは、私たちが「信じたい現実」だけを、やすやすと映し出してしまうのだ。

もはや“映像”は証拠にならない時代へ

いまや、映像も画像も、もはや「真実の証拠」ではなくなった。
AI生成が当たり前の時代に、信頼できるのは社会的に信用のある機関の発表か、あるいは自分の判断力だけ。

情報が溢れ、真偽が曖昧になるほど、人間には「見抜く知性」が求められる。
これからの時代、最も価値があるのは――
**“見抜く力”と“考える意志”**なのだと思う。

AI時代の表現者として

sora2が見せてくれたのは、技術の進化ではなく、人間の感性の変化だった。
人々は「真実」よりも「信じたい映像」を求め、
創作者は「考えさせる文章」よりも「すぐに届く映像」を選ぶ。

それでも私は、考えることをやめない。
AIが“真実らしさ”を量産する時代にあって、
言葉の奥底にある「人間の意識」を掘り起こすことこそ、
表現者の最後の使命なのかもしれない。

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この記事を書いた人

大日如来参上のブログへようこそ。ここでは、性の本質、結縁の道、聖地巡礼、社会の問題、舞台や映画のレビュー、そして智慧の書など、多様なテーマを通じて、内なる美と智慧を探求します。
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