
あの夜、夢洲の光が消えた瞬間、私は涙をこらえきれなかった。
半年間だけ現れた理想の世界──大阪・万博。
その眩しさは、七年前に迷い込んだ飛田新地よりも、はるかに幻だった。
どちらの世界にも「現実」がなく、どちらにも「優しさ」があった。
そして、どちらも、多くの大人たちが裏で支え、作り上げた“虚構の楽園”だった。
高校野球を終えて、人生の意味を見失った十九の夏。
あの時と同じ虚無が、再び私を襲っていた。
万博の会場を歩き尽くし、国境を越えた笑顔に囲まれながら、
私はなぜか、帰り道で泣いていた。
――「もう、あの世界には戻れない」。
そう悟った瞬間、私は“現実”に引き戻されたのだ。
「高校野球」と「万博」。
一見、まったく違う世界のようでいて、実は私にとっては同じ幻影の続きだった。
■ 高校野球という“世界のすべて”
高校時代、レギュラーの座を掴むために、ただ野球だけをしていた。
そのときの私にとって、グラウンドこそが世界のすべてであり、勝つことが生きる意味だった。
振り返れば、あれほど一心に何かへ没頭できた時間は、あの瞬間しかない。
しかし卒業して気づく。
あの熱狂の舞台は、実は多くの大人たちに守られていた幻想の世界だったのだ。
今さら戻ろうとしても、もう帰る場所などない。
■ 現実は“錢勘定”の世界だった
大学進学が決まり、人生で最も輝いていたはずの春。
だが内面は虚無に包まれていた。
「これからどう生きていけばいいのか」。
答えのないまま社会に出て、今、私はスーパーの平社員として働いている。
それでも――非正規に落ちなかっただけ、まだ救われていたのかもしれない。
■ 万博という“もう一つの甲子園”
そして私は、あの感覚をもう一度味わった。
それが大阪・夢洲の万博だった。
朝3時半、弁天町からタクシーで会場へ向かい、夜まで歩き続けた。
半年しかない夢の国。
みんなが“目当てのパビリオン”を目指して走る。
「未来の子どもたちが、今のあなたたちを見て笑っているよ」と叫ぶスタッフの声も、誰の耳にも届かない。
私もまた、例外ではなかった。
■ 万国の理想──人間が描く最初の夢
パビリオンの中では、各国のスタッフが笑顔で迎えてくれる。
異国の音楽、踊り、美しい女性の歌声。
まるで人類が手を取り合うユートピア。
その光景は、幼い頃に近所の母親がくれた「ものみの塔」の絵本に似ていた。
肉食獣も草食獣も、人種も男女も分け隔てなく、すべてが共存する地上の楽園。
人は絶望の中でこそ、こうした世界を思い描く。
もしかすると、これこそが人間が最初に抱く普遍的な理想なのかもしれない。
■ 理想は“錯覚”でも、美しかった
万博の警備費用は半年で280億円。
そのお金の上に、「平和な理想世界」は成り立っている。
現実に戻れば、世界の平和は遥かに遠い。
それでも、あの会場で得た体験は幻ではなかった。
高校野球も万博も、多くの人が支え、関わってできあがる現実の夢なのだ。
その夢を見ていた証拠が、今も私の中に生きている。
■ 万博ロス──“もう一度会いたい”という錯覚
終わった万博に、なぜ私はまだ行きたくてたまらないのか。
たぶん、もう二度と会えないことを知っているからだ。
人が誰かを本気で好きになると、涙が出る。
それは、永遠に一緒にはいられないと、心の奥でわかっているからだろう。
右手を失った人が、鏡に映る手を見て痛みを癒すように、
私たちは“錯覚”によって心を守る生き物なのかもしれない。
■ 万博という幻を、生きる証として
万博ロス。
それは、消えた夢の痛みであり、
もう戻れない“理想の世界”への郷愁だ。
だが錯覚でもいい。
その瞬間、確かに私は生きていた。
世界のすべてを信じていた。
――あの万博の熱気の中で。
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