
外面から削り出される内面 ― 生をめぐる思索
私たちは普段、「内面」と呼んでいるものを、あたかも独立した実体のように考えがちです。しかしよく考えてみると、それは外の世界からの印象や想像の堆積に過ぎないのではないでしょうか。
むしろ危ういのは、その「外面から来る想像」を軽視し、軽蔑することで、いかにも純粋な「内面」に迫ろうとする態度です。果たしてそんなやり方で本当の内面に到達できるのでしょうか。
私にとって、これまでの経験はすべて「外面」によるものでした。見たこと、感じたこと、解釈したこと、行為したこと――そのすべてが外に現れた事象を通じてしか捉えられていない。突き詰めれば、私たちが知り得るもの、感じ得るものに「外面以外」は存在しないのです。
だからこそ大切なのは、外面を直視し、その差異を見極め、それを魂と愛の力で少しずつ削り落としていく努力なのだと思います。そうして初めて、私たちは「内面」と呼ばれるものの輪郭に触れるのかもしれません。
「生」は方法であり、到達点ではない
私は「生」には明確な方向も目的もないと考えています。生は対象化して捉えられるものではなく、ただその中に在るしかない。思考や言葉ができるのは、生を直接つかむことではなく、その外側を削り出すことだけです。
たとえば、パリへ渡ったマルテ(リルケの『マルテの手記』)は「まず見ることを学ぶ」ために努力しました。マルテにとって生は、内面を掘り出すための絶えざる方法であり、決して完成形としての到達点ではありません。それはヘルダーリンのような「素材」とは違うのです。
私自身、ずっと何かを待ち焦がれ、努力してきました。高校で野球をやり、大学にも進学できた。そのときは嬉しかったけれど、次に続く生活は虚無感に包まれていました。女性との関係にコンプレックスの解消を求めたこともありましたが、それも錯覚にすぎず、結局は堂々巡りでした。性欲の反復が、むしろその「無限のパロディ」に見えてくるのです。
志と虚無のはざまで
だからこそ、キング牧師のように「私には夢がある」と叫び、その渦中で命を絶たれる生き方は、ある意味では幸福なのかもしれません。なぜなら、たとえすべての夢がかなえられたとしても、その喜びは一瞬の快楽に過ぎず、やがてまた絶対的なものを求めて飢えと渇きに襲われるからです。
来週、私は万博や飛田新地に足を運ぶ予定です。そこに「絶対的なもの」が待っているわけではありません。しかし、こうして文章を書くことで、遠くに光るイデアの影を一瞬でも垣間見ることができる――それが今の私にとって、ブログを書く最大の喜びなのです。
生には目的も方法もない? ― 恋愛と野球から考える
私たちはつい「人生には目的があるはずだ」「どうすれば正しい生き方ができるのか」と考えてしまいます。けれども、よく考えると「生そのもの」には、実は明確な目的も方法も存在しないのではないでしょうか。
恋愛にマニュアルはあるのか
恋愛をしているとき、「この服を着れば好かれる」「こういう言葉をかければうまくいく」といったマニュアルを探したくなるものです。確かに努力の“方向性”はあります。けれど、その通りにしたからといって必ずうまくいく保証はありません。
そもそも恋愛の「最終目的」は何でしょうか?結婚でしょうか、それとも一緒にいる時間を楽しむことでしょうか。人によって答えはまったく違います。つまり「恋愛の方向」といった絶対的なものは存在しないのです。
野球という縮図
野球でも同じです。「ヒットを打つにはどうするか」と考える“方法”はあります。しかし、野球そのものが「何のために存在するのか」と問われると、答えは一つに定まりません。勝つため?仲間との絆のため?楽しむため?
野球という行為自体には、絶対的なゴールは存在しないのです。
生を考えることはできても
恋愛や野球のように、人生にも「考える方向性」はあります。しかし「生そのもの」が持つ明確な目的や唯一の方向はない。
だからこそ、人はそれぞれに「問い続ける」しかないのです。
読者への問いかけ
あなたにとって「生の目的」とは何でしょうか?
- 恋愛で愛する人と出会うこと?
- 野球のように勝利を目指すこと?
- それとも、ただ今を楽しむこと?
生には「方向」や「答え」がないからこそ、問い続けること自体がすでに“生きること”なのかもしれません。
👉 この記事を読んで、ぜひあなた自身の「生の意味」について考えてみてください。
👉 この記事を通じて、あなたにとっての「内面」とは何か、「生」とはどのように見えるのかを、ぜひ考えてみてください。
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