焼肉の余韻と、老いゆく身体と――深夜の鶯谷で思ったこと

夜10時過ぎ――
予約がなければまず入れないと言われる「鶯谷園」に、遅い時間帯の空き枠でなんとか滑り込むことができた。

店内にはすでに夜の静けさが漂い始めていたが、残された炭の熱と香りはまだ生きている。人気部位はすでに売り切れていたが、運良く「特上ランプ」や「カルビ」はまだ残っていた。

網に乗せると、脂がじゅっと音を立てて弾けた。甘く香ばしい煙が立ちのぼる。焼き上がった肉を口に運んだ瞬間、歯が必要ないほど柔らかく、脂が舌の上で溶けていく。
それは単なる美味しさではなく、身体の奥まで染みわたるような快楽だった。

こんな味が、この価格で? と疑いたくなる。だが確かにそこにある。
脂の甘さ、旨味、そして噛んだあとに訪れる静かな余韻。そのすべてが、今までの焼肉経験の延長線上にはなかった。

「まだ知らなかった世界が、ここにもあったんだな」と、しみじみ思った。
ものを創る者にとって、こうした体験は欠かせない。視野の限界を世界の限界と決めつけてはいけない――焼肉ひとつで、そんなことを思わされた。

ふと隣を見ると、若い男女が入ってきた。女は韓国アイドルのような美貌とスタイルをまとい、男は控えめに彼女に従っている。あまりに整った顔立ちに、無意識に目を奪われる。だが同時に、こういうタイプと暮らすとなると、現実の厄介さもまた想像できてしまう自分がいる。

鶯谷という街には、夜の顔がある。ホテル街のそばを歩くと、水商売風の美女たちが、涼しい顔で通り過ぎていく。そして、その中にまじる外国人観光客。
治安が気になる空気がどこかにありつつ、彼らの多くはただ、穏やかに日本を楽しみに来ているのだろう。

それでも、一部の出来事がすべての印象を塗り替えてしまう時代だ。
他者を恐れる心が、差別を生み、壁を築く。
そしてそれは、鶯谷園の厨房にも静かに現れていた。

スタッフのほとんどが外国人。うまく通じない日本語。配膳の手元が少し怪しかったのは事実だ。だが、それを笑う資格が今の日本にあるだろうか?
人手不足の中で、この国を支えているのは、まさに彼らだ。
潔癖なまでに品質にこだわる国だからこそ、異物への警戒が過剰になる
そして、差別は、そうした潔癖の影から生まれるのかもしれない――。

食べ終えた後、焼肉の余韻を連れて、ホテルまでの夜道を歩いた。深夜にもかかわらず、蒸したような暑さに汗がにじむ。

この汗が、最近は愛おしい。健康でいられる証のように思えてきたのだ。

最近、有名人が若くして亡くなったというニュースがよく目に入る。
気づけば、自分もそんな年齢になったのかと思う。
あとどれだけ、この脂の甘みを、夜風のぬるさを、汗の感触を、記憶に刻んでいけるのだろう。

鶯谷園は、まるで人間の“欲”の最前線にあるような場所だった。
誰より少し上等な体験を、誰より少し手の届く価格で。
その「ちょっとの贅沢」が、都市に生きる人間を惹きつけてやまない。

食後、満腹と幸福感に包まれたはずの身体は、ホテルのトイレで下痢をした。
胃腸がもう若くない。
ベッドに倒れ込むと、静かに目を閉じた。

それでも、また来ようと思った。
またあの味を、あの感覚を、
生きているうちに、もう一度。

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