
──その夜、私は人生で初めて〈命を託す行為〉に挑んだ。
相手の女性が選んだのはタイミング法。医療の道具に頼らず、もっとも原初的なかたちで精を受け取る。正直に言えば、いまの私の性欲は二十代の燃えるような衝動にはとうに及ばない。だからこそ、彼女の「どうしても自然に授かりたい」という願いに胸を撃たれた。そこには、私の衰えかけた欲望など軽々と超える、決意と切実さがあった。
生のまま、彼女の体内に触れた瞬間──。
柔らかな温もりが羊水の記憶を呼び覚ます。かつて胎児だった頃、世界と私とを隔てていた穏やかな海。その懐にもう一度迎え入れられたかのようだった。腰を打ち寄せるたび、見えない手が私を誘い、吸い上げ、何かを待ち受けている。肉体は魂の殻にすぎないはずなのに、あの一瞬、肉体こそが宇宙の扉だった。私は神秘の向こう側をのぞき込み、そして扉は音もなく閉じた。
部屋を出たあと、ふと気づく。これは快楽を売り買いする夜とはまるで別物だ。ここには〈生まれてくるかもしれない誰か〉の重さがあった。観念だけで語ってきた〈命〉が、急に掌の上で脈を打ち始めたのだ。
それでも確率は残酷で、医師もAIも「せいぜい一〜二割」と告げる。四十四歳という数字が重くのしかかり、私は頭を垂れて祈るしかない。けれど祈りの奥底で、小さな声がささやく――
「奇跡は、確率の隙間をすり抜けてやって来る」と。
思い返せば、祖母が逝ったあの日から、風の匂いが少し変わった気がする。彼女の魂がどこかで灯を掲げ、私の精子の一つをそっと導いているのではないか。幼いころ自販機の〈当たり〉を信じ切っていたように、私はもう一度、世界のやさしい偏りを信じてみたい。
どうか──
七夕の夜、天の川を渡って逢瀬を果たす彦星と織姫のように。
私の遺伝子が、彼女の体内で光る星粒と結び合い、やがて新しい命となって降り立ちますように。
この祈りが宇宙の深い井戸へ届くことを願いながら、私は静かに目を閉じた。
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