遠藤周作原作の映画『沈黙』での一場面に、ポルトガルの宣教師が長崎奉行・井上筑後守に問いかける。「なぜ、キリシタンを迫害し拷問するのか?」と。井上は、ここが「天皇の国」であり、異国の教えが根付く土壌は存在しない、と毅然と答えた。このやりとりは、日本にとって天皇がどれほど神聖な存在であったかを象徴している。かつての日本では、天皇は天照大神から続く「万世一系の生き神様」とされていた。戦後、天皇が人間であることを宣言したが、それまでの長い歴史の中で日本人にとって天皇は神そのものであったのだ。
その理屈に基づけば、眞子様は昭和天皇のひ孫であり、「神のひ孫」ともいえる。現在では「神の姪」、将来には「神の姉」とも称されることになる。この天皇の神性に対する考えに、私は三島由紀夫が示した「天皇人間化」への反発を重ねて見てしまう。
数年前、私は仙洞御所を訪れる際、宮内庁に足を運んだ。入口には4人もの警察官が配備されており、皇居内は美しく整えられ、作業員が細やかな手入れを施していた。皇室が動くたびに、彼らの安全と品位を保つため、衣食住に多額の税金が投入されているのが実感された。
一方で、キリスト教は「神の子キリスト」という概念をもとに、絶対的な神の存在とその前での平等を説く。この普遍的人間性という理念は、日本においては異質だった。なぜなら、日本では天皇が神であり、国民の道徳観や社会の在り方を象徴する存在だったからだ。そのため、キリスト教の「絶対の神」が天皇を凌駕するという発想は受け入れられにくかったのだろう。
さらに、秋篠宮家が将来の天皇となる悠仁様の姉2人を国際基督教大学に通わせる選択について、私は一抹の違和感を覚える。彼女たちは、大学生活で触れた周囲の価値観や思想に強い影響を受けたのではないかと感じられる。その姿勢が時に「両親の意向を尊重しない」という形で現れることもあるかもしれない。国民として税金を納め、皇室を神聖視する立場からすれば、皇室にはその立場にふさわしい自覚と行動を期待したいものだ。
皇室を維持するために、多くの国民が犠牲を払ってきた。戦中には多くの命が失われたし、それに捧げた努力と犠牲は計り知れない。このたびの眞子様の結婚についても、国民の一部には疑問や不安の声がある。それは、皇室が築き上げた尊厳と伝統を傷つけるのではないかと懸念する気持ちの表れだ。亡くなった先人たちがこの事態を見れば、驚きと嘆きで涙するだろう。
日本は現在、国際化社会の中で伝統と現代の価値観のはざまで揺れている。このままでは、我々が大切にしてきた「日本らしさ」や「皇室の神聖性」が形骸化していくのではないか。今こそ、日本と日本人が何を守り、どのような未来を描いていくべきかを改めて考える時が来ているのかもしれない。