安部公房の文学に触れることで、私が感じたのは、人間が「名づける」という行為に対する驚きと、その裏に潜む恐ろしさでした。特に彼の『枯尾花の時代』にある「ライオンすら枯尾花にしてしまった」という表現は、物事をどう認識するかによって恐怖さえも無力化してしまう、という洞察を強烈に私に焼き付けました。この考え方が、現代でもどれほど重要かは、時代を経ても変わりません。私たちが見落としている未知の存在が、実はまだ無数にあるのかもしれないという指摘に、ハッとさせられます。
文学初心者の私にとって、安部公房は文学的知性を求めるきっかけを与えてくれた人物です。彼が文字を通して人間の本質に触れようとする姿勢が、私を引き込んでやみません。そうした思いを抱きながら、神奈川近代文学館へと向かった日、突然の大雨に見舞われました。駐車場に着いた頃にはすっかり土砂降りで、やはり電車で来るべきだったと悔やんだことを思い出します。
文学館の展示室には、安部公房の生い立ちが写真や手紙とともに時系列で紹介されていました。高校生の頃から難解な哲学的表現が使われていた手紙を目にすると、私の高校時代の拙い思索と比べ、なんと大人びた内面を持っていたのかと驚かされます。あの頃、私は野球の練習に逃げるばかりで、深く考えることからはむしろ目を背けていたかもしれません。
安部が日本の敗戦を理由に、偽のビザを作って友人と共に朝鮮行きの船に乗り込んだエピソードにも心が動かされました。展示されていた彼の友人の写真や、彼が手紙で送った想いは、文字を超えた生身の存在感として迫ってきます。そういった実際の手紙や友人との交流が、安部公房という人物の人間らしさを改めて感じさせてくれました。
私にとって、安部公房は単なる作家以上の存在です。彼が生きた時代背景や彼の文学的主張を通して、私は文学の価値や人間理解の奥深さに触れることができました。彼の作品を読むと、言葉では説明し尽くせない人間の身体性や現実の重みを感じずにはいられません。
文学館の展示を後にして、安部公房の他にも、樋口一葉に関する展示も目にしました。吉原近くの下町商店街がミニチュアで再現されており、少年たちが遊んだ品々が並ぶその風景を見たとき、彼女の『たけくらべ』の情景が一気に現実感を帯びて迫ってきました。単なるおとぎ話ではなく、当時の彼らの心の葛藤がリアルに伝わってくるのです。
安部公房はかつて共産党員としても活動しましたが、貧富の格差に疑問を呈し、自らの批判的意見により除名処分を受けました。この点において彼と三島由紀夫には通じるものがあると感じます。理想主義を抱きながらも、それが叶わぬ現実を見据えている彼らは、現代社会においても重要なメッセージを投げかけているのです。
もし文学に興味が湧いた方がいたら、ぜひ神奈川近代文学館を訪れてみてください。安部公房や樋口一葉といった作家たちの「言葉以前の身体性」に触れ、人間の持つ複雑さや奥深さに思いを馳せることができるでしょう。
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