私は、高校時代の3年間、私立高校で野球に打ち込んでいました。しかし、それ以来、マスコミが放映する高校野球には、どうしても馴染めなくなりました。教員を経験した人が、教員を題材にしたドラマや映画を避けるのと同じ感覚かもしれません。しかし、時が経つにつれて、あの時の高校野球が実は社会の縮図だったのではないかと感じるようになり、今では毎年、何試合かは欠かさずに観るようにしています。
今年、注目していたのは、元々在日朝鮮人のための学校であった京都国際と、東京の江戸川区にある関東一高の試合です。私はどちらかといえば、関東一高を応援していましたが、試合は見ごたえがあり、0対0で9回を終えた時点で決着がつかず、まさに手に汗握る展開となりました。延長戦に突入し、タイブレークで決着を迎えたとき、私は関東一高の勝利を心から願っていましたが、現実は厳しく、最終的に京都国際が勝利を収めました。
京都国際の左腕投手は、まさに高校生離れした実力を見せつけ、関東一高のバッターたちを抑え込みました。選手達も、京都らしく、苦行僧のようなオーラがあって、野球に打ち込んできたことが伝わってきて、韓国語の校歌だという先入観だけで観るのは恥ずかしいことだと改めて思いました。スポーツは国境を超えるものですね。試合の結果は運命のように感じられますが、これがまさに社会の一端を映し出しているのではないかと思わざるを得ません。実力がどれだけ接していても、最終的な勝者が存在すること。そして、その勝者が歴史に名を残すのです。
しかし、この白球を追いかける高校球児たちは、この先どうなるのでしょうか? たとえば、私がかつて共にプレーした仲間の中に、甲子園に出場したA君がいました。彼は、甲子園での活躍を機に、多くの注目を集め、プロ入りの期待も高まりました。しかし、プロの厳しい世界に足を踏み入れた彼は、わずか数年で戦力外通告を受け、その後、野球を続けることも叶わずに引退しました。彼はその後、一般企業に就職しましたが、これまでの栄光に囚われ、地道な仕事に馴染むことができず、何度も転職を繰り返す結果となりました。
また、別のB君は、スポーツ推薦で名門大学に進学しましたが、実際には学業よりも野球に専念する日々を送りました。大学野球でも注目を集める存在でしたが、プロの道には進めず、卒業後は社会に出ることになります。しかし、学生時代に野球に没頭しすぎていた彼は、就職活動に苦労し、なんとか得た仕事でも野球時代の輝きが消えず、社会人としての適応に苦しみました。B君は、「大学時代が全てだった」と語りますが、その言葉には、彼の悔しさと現実とのギャップが現れています。
こうした事例は決して珍しいものではありません。高校野球で脚光を浴びた選手たちが、プロや大学進学後に厳しい現実に直面し、苦しむ姿を何度も目にしてきました。プロに進むのは一握りであり、大学進学も野球だけでは難しい現実があります。彼らの多くは、プロに進めず、社会においても野球の実績が思うように役立たない現実に戸惑うことが少なくありません。野球でちやほやされてきた選手が、地道な仕事に適応できずに苦しむ姿を、私は多く目にしてきました。
メディアが高校野球を美談に仕立て上げる一方で、こうした厳しい現実が存在することを忘れてはなりません。感動的なストーリーの陰で、他の才能や可能性が埋もれてしまうこともあるのです。歓喜に水を差すように思えるかもしれませんが、私はあえて言いたいのです。真実を知り、現実に向き合うことは、決して無駄ではないと。それこそが、彼らが自分の人生を真に豊かにするために必要な第一歩だと信じています。