小学校時代、私には特に印象深い男の子がいました。彼とは左利きという共通点がありましたが、彼はすぐに右手に直しました。私は左利きを通したままでした。この選択は、自分で判断し決めた初めてのことで、強く記憶に残っています。その後、彼のことが気になり続け、いつも彼との間に距離を感じていました。彼はそれほど距離を感じていないようでしたが、私はいつも距離を感じていました。もし私が右利きに変えていたらどうなっていただろうと考えることもありましたが、当時の私にとっては、ただ彼との距離を感じていることが現実でした。
学校の門を出ると、3段の階段があり、その先には生垣のある細い道が続いていました。見通しの良い平和な小道で、右手には5階建ての団地が続いていました。その道を今の年齢のまま、若い頃の彼と一緒に歩きました。戦争が激化し、徴兵の恐怖が現実味を帯びてくる中で、彼と一緒に逃げ、ホテルに宿泊しようという考えが胸にありました。その不安から、胸の鼓動が痛いほどに高まりました。
記憶の中には、ミサイルの被害で倒れている5人の人々がいました。彼らの顔は布で無造作に覆われ、見えませんでした。
また通学路に戻ると、宮台真司が奥さんと一緒に現れました。「あっ、宮台真司だ」と思いましたが、帽子を目深にかぶっているため、顔ははっきりとは見えませんでした。
最近の生活でも、不安が増大しているのを感じます。両親が高齢になり、いつまで続くかわからない不安もあります。声だけは衰えず、顔を見ずに声だけを聞いて話すことが増えました。人はいずれも落下していく。
リルケの詩「秋」を思い出しました。
秋
木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
まるで大空の遠く離れた庭園が枯れたように
木の葉は嫌々ながらも落ちてくる
そして夜になると 重たい大地が
あらゆる星から 孤独のなかへ落ちてくる
わたしたちはみんな落ちる この手も落ちる
他のものも見てごらん みんな落ちていくのだ
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手で支えている者がある
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幼き日の記憶と現在の不安が交錯する中、リルケの詩が心に響きます。日々の中で感じる落下のような感覚を、誰かが優しく支えてくれることを願って。