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川端康成のノーベル賞受賞と三島由紀夫の複雑な心境:専門家の見解を交えて

川端康成ノーベル賞受賞に対する三島由紀夫の真意

川端康成ノーベル文学賞を受賞した際、三島由紀夫は心から喜んだのではないでしょうか。川端が日本の美しい古典からインスピレーションを受けて作品を紡いできたことは、三島にとっても誇らしいことだったはずです。三島自身も日本文化の深淵からインスピレーションを得て、文学に命を懸けてきました。そのため、川端の受賞は三島にとっても、自分が認められたことと同じように感じたのではないかと思います。

ノーベル文学賞には平和賞的な側面があり、受賞するには平和に貢献するような影響力が求められます。そのため、たとえマルキ・ド・サドマゾッホのような世界史に残る文学者であっても、受賞は難しいでしょう。三島は40歳になる前から自衛隊と活動を共にし、作品には政治色が濃くなっていったため、ノーベル賞を受賞することは考えていなかったのかもしれません。仮に川端が「ノーベル賞を譲ってくれ」と言ってきたとしても、三島はそれを喜んだことでしょう。

三島由紀夫文学館では、三島の書斎が再現されています。日本の古典が本棚にぎっしりと埋まっていたことを覚えています。

専門家の見解

文学研究者の多くは、川端康成三島由紀夫の関係について、複雑な感情が交錯していたと指摘しています。日本文学研究者の佐藤紘一氏は、「川端と三島は互いに深い尊敬の念を抱いていましたが、文学や政治に対する姿勢の違いがありました。川端は伝統的な美の探求者であり、三島はその美を守るために政治的行動を取ることを厭わなかった」と述べています。また、文化評論家の田中俊太郎氏は、「三島は川端がノーベル賞を受賞したことで、自分の文学的な師匠が国際的に認められたことを喜びつつも、自身の政治活動や思想が理解されないことに孤独を感じていた」と分析しています。

日本文化の変容と三島の孤独

アメリカの占領により、日本は欧米文化に染まり、日本人は商売(金儲け)のためだけに精を出すようになりました。原爆を知る国民として、武器の前の絶対的な無力感も影響しているでしょう。三島は市谷駐屯地内の東部方面総監部のバルコニーで、天皇を中心とした文化と伝統を守るために立ち上がるよう叫びましたが、その声は誰にも届きませんでした。

日本文化の伝統を愛し、その伝統から自らの作品を生み出してきた三島にとって、時代の流れは自分の全生涯を否定するように感じられたでしょう。死の一週間前の古林尚との対談で、三島は自分を「ローマ帝国最後の詩人ペトロニウス」のような存在とし、日本語が身体に染みついている最後の世代であると語っています。彼は、これからの国際化、抽象主義の時代には自分の書くものは何もないと述べ、安部公房がその方向に向かっていることを指摘しました。

川端康成との関係と三島の絶望

三島は人生のすべてを日本文化に捧げ、楯の会を設立して命懸けで活動していましたが、同志であるはずの川端康成が共感しないことに理解を示すことができませんでした。楯の会の周年祭に川端を招待しましたが、彼は出席を断りました。心の支えとしていた川端がノーベル賞を受賞し、ペンクラブの会長となり、名声を守る立派な俗物になっていることに三島は落胆したことでしょう。なぜ一緒に闘い、日本の美しさを守ろうとしないのかと。そうしなければ、私たちは書くこと、つまり生きることすらできないと感じたはずです。

三島由紀夫の最後の叫び
バルコニーで叫ぶ三島の姿をテレビで見ると、あの孤独な姿に胸が痛みます。腹を切るという行為は、日本人最後の男子としての決意の表れであり、戦場に行けず多くの仲間を失った自分が、日本文化を守る最後の一兵卒としての自己表現でもありました。

このようにして、三島由紀夫は日本文化への愛と絶望を抱えながら生き、そして命を絶ったのです。

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