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「誠に申し訳ございません。もう絶対メールしないと誓ったはずですが、ここ数ヶ月、君のことが脳裏から離れません。自分のことのようにYさんが浮かんできます。お会いした日が遠ざかるほど全体像が見えてくるものですね。何故、君だけが掛けがえのない存在と考えるのか、正直にすべて書きました。これで必ず最後に致します。
私は弘法大師空海に憧れた父親の下で育ちました。空海は自費で現在の中国に渡り、密教哲学を日本に持ち帰った初めての人です。天皇陛下に密教を教え、その後ろ盾でもって、五重の塔で有名な東寺を建立しました。
また修行の根本道場を高野山に定め、そこを女人禁制にし、日本で初めて庶民のための学校や溜め池をつくり、多くの書物を遺しました。性欲に代表される煩悩は、すべて社会的価値の高い活動に昇華する理想郷を求めたのでしょう。
父親は、空海ほどのスーパーマンはいないから、自身は市井の良い英語教師として、二人の子を持つ父親として生きていけばいいと納得したのでしょう。キリスト教徒がキリストほど人を愛することはできないから、自身は神の愛を伝える使途であればいいと、良心の呵責に悩まされず気楽に生きる姿と似ています。
父の趣向に触れるたび、子供心に、スーパーマンになれと望まれているような誤解をしていました。
大学生になると、彼女ができる友人も増えて、性欲は強くなるし、自分の生き方に悩むようになりました。三島由紀夫に出会ったのは、その頃です。
空海の唱えるのは、聖人の説で、三島由紀夫は小説家ですから、小人の説なんです。彼の著す物語には、些細なことで道に迷う人達が、俗世間に染まりながら、一縷の意思を持って生活する中で、刹那きらめく真・善・美が描かれています。その姿に多く励まされてきました。
私が、Yさんを素敵だと思うのは、純粋な女性原理の世界を守り、創り上げてきた意思にあります。熊のプーさん展の風船の糸を後ろ向きに持っている姿、実家の犬猫を家族のように想う愛情、ハプスブルク展のような美しいものに囲まれる生活への願い、言葉に出来ない世界を音楽で伝えようとする強い気持ち、動物達を助け獣医になろうとする優しさ、そしてなにより、弱ったお年寄りを介護する日々のお仕事。
Yさんは綺麗で可愛くて美しく、表情や挙措や振る舞いも、そして話すことのすべてが女性の魅力に溢れていました。私は君のような異性としての魅力はないけれど、結婚していない理由は同じであると考えています。心の底にある男女の原理に対する純粋さゆえに、自分の良いとして思い描く世界に異性を受け入れる余地が少ないということです。
君の魅力から周囲は、婚活していることに首をかしげるはずです。モテないはずがありえません。それでも、真顔で首を振る君は、ただ男性をあるところで拒んでいるだけだと思います。
ツヴァイの出会い準備講座の動画では、男性は永遠の6歳で、女性は永遠の18歳だと講師が話しています。精神の世界史にこれを当てはめると、人間の寿命で6歳に当たるのがギリシャ哲学のエロースであり、18歳にあたるのが、キリスト教のアガペーであります。私達が雛人形のように純粋な男女原理の一対だとしたら、互いの追求してきた価値観は、この2つの思想に近いと考えられます。
以下、参考書を抜粋しました。
「人はだれしも、美しいもの、優れたものを好み、手に入れたいと思う。価値あるものを求め、そのことによって自分自身の向上をはかる愛を、ギリシャ人はエロースとよんだ。プラトンは、このエロースに哲学的解釈を与え、人間を真・善・美の三面を有する理想へ限りなく高めていくものとした。つまり、個別的なものへのとらわれを離れ、普遍的真理に向かって自己を拡大していく衝動としてエロースを意味づけたのである。
たとえば、学校で教師が生徒に教育愛を注ぐのは、生徒が普遍的真理を求めていけるものとして生徒の価値を認めているからであり、生徒が真理を求めて向上していくことに教師として満足できるからである。
このようなエロース的愛は、自分自身がよいものを求めるだけでなく、他者をよいものにしていくためにも、人間関係のなかになくてはならないものである。
しかし、エロース的愛は、価値があると思われるものに注ぐ愛であるから、価値が認めれられなくなったものには愛は自然に停止してしまう。愛は対象を失い、人間は孤独に陥る。
これに対して、対象の価値にかかわりなく、また自分を満足させるかどうかを問わない愛を、キリスト教ではアガペーとよんでいる。
たとえば教師は、どんなにできない、よいところの見当たらない生徒に対しても、愛情を注ぐことができなければならない。心身に重い障害をもつ子供をいとおしく思う母親の愛、再起不能の病人でありながらも手厚く看護しようとする愛、差別され虐げられた人々のために自己をなげうって奉仕する愛などがそれであり、イエスの罪人に向けられた愛はその究極の姿を示している。
このような愛は、そこに存在するということだけで惜しみなく与えることのできる愛であるから無償の愛ということができる。また、愛の対象の価値に左右されない愛であるから、停止することのありえない愛である。人間はこのような愛によって、孤独を脱することができるのである。」
こうして考えると、ご指摘のように、価値観(人間に対する考え方)が根生いのところで真逆であります。端的にエロースは地上から天上へ向かう自己愛であり、アガペーは神が人間に向かう道とするなら、お互いの究極とされる人間のあり方については一致してくるのではないでしょうか?
源氏の氏神である鶴岡八幡宮で巫女をされていたお話の中で、源実朝について問いかけていたことを覚えていますか?
先日、鎌倉駅で降りて、参拝してきました。コロナウィルスの影響からか観光客が少なく、多く店内は人影がまばらでした。大銀杏の根株を横目に、階段をのぼりきると、お守りを並べた本宮前の授与所に、緋袴と白衣を身にまとった巫女がいました。
ふり返ると、遠くの青い海に向かって常緑樹の豊かな参道が一直線に伸びていて、両側の白い建物が道を守るように続いています。3つの鳥居が赤い関門のように並んでいました。
大銀杏前の階段、13段目で立ち止まりました。小学校5年生の時に、担任の先生が、日に照らされた変哲もない階段を指差して、ここで源実朝が暗殺されたと説明していたのを思い出します。
生まれつき病弱な源実朝は、源氏に生まれ、兄、父、伯父を暗殺される権力闘争の渦中にいて、若年の死をいつも予感しながら歌を支えとして生涯を送りました。子供を産むことの許されない境遇の中で、源氏の正統が自分で終わるから、せめて高い官位につき、家名をあげることを望むようになります。築き上げた和歌を広めるために命を捧げたのだと思うのです。周囲の反対を押し切って、右大臣の拝賀式に向かうたため、長年住みなれた我が家を出る前に、御髪上げをした者に遺髪を渡し、辞世の句を詠みました。
「出で出でて 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」
人生で、Yさんが誰よりも素敵な人でした。」