【2026年】ロン・ミュエク展を見て|《枝を持つ女》《イン・ベッド》に感じた痛みと孤独

森美術館で「ロン・ミュエク」展を見てきた。

正直に言えば、「楽しかった」という展覧会ではなかった。

すごかった。間違いなくすごかった。しかし、見ていてしんどい。居たたまれない。作品の前に立つたびに、自分が普段なるべく見ないようにしている何かを、目の前に差し出されているような気がした。

まるでお化け屋敷を歩いているのに、次々と現れるお化けが、よく見ると全部自分だったような感じである。

それが、今回ロン・ミュエクを見て一番強く残った感覚だった。

最初の方で現れる《枝を持つ女》が、すでにそうだった。

ロン・ミュエク《枝を持つ女》

裸の女性が、大量の枝を抱えている。

決して英雄的な姿ではない。特別に美しく理想化された女性でもない。枝は重そうだし、肌に当たれば痛いだろうと思う。実際、身体には引っかき傷まである。彼女は枝を地面につけまいとして身体を反らしている。

見ていて、「こんなの絶対きついだろう」と思った。

それでも彼女は持っている。

何のためなのかは分からない。

だが、ふと考える。

人間の日常というものは案外、こういうものではないだろうか。

家族だったり、仕事だったり、責任だったり、過去だったり。別に誰かから「持て」と命令されたわけでもないのに、一度抱えてしまったものを、痛いと思いながら毎日運んでいる。

そして彼女の顔には、「私はこうして生きています」とでもいうような静かな表情がある。

ミュエクには、人が何かに耐えている姿を見逃さない目があるのだと思った。

巨大にすることで、人間が分からなくなる

そして《イン・ベッド》。

長さ6.5メートル。幅も約4メートルある巨大な中年女性が、ベッドの上に横たわっている。血管、肌、髪、目。近くで見ると恐ろしくなるほどリアルである。

だが、面白いのは「リアルだからすごい」というだけではなかった。

顔が巨大すぎるのだ。

普通なら街ですれ違っても、そのまま通り過ぎてしまうかもしれない一人の女性。それを6メートル以上にしてしまう。

すると、突然こちらが彼女について考え始める。

何を見ているのだろう。

何を考えているのだろう。

幸せなのだろうか。

何かを諦めたのだろうか。

目を覗き込んでも視線はこちらとは合わない。その視線の先に何があるのか分からないから、余計に気になる。

私は前日にルーヴル美術館展 ルネサンスを見ていて、レオナルド・ダ・ヴィンチの《美しきフェロニエール》の視線にも妙に引き込まれた。

もちろん、二つはまったく違う作品である。

一方は美しい肖像画であり、一方は巨大な現代彫刻だ。

しかし、「この人は何を考えているのだろう」と鑑賞者に覗き込ませてしまうところには、どこか共通した力を感じた。

ただしミュエクの場合、それを「美しい人」でやらない。

どこにでもいそうな人を、異様な大きさにしてしまう。

それによって、日常の中では見過ごしてしまう人間そのものを、否応なく見せてくる。

ここが面白かった。

高野山などを訪れたときにも、本来なら小さいはずのものを巨大化したり、巨大だと思っているものの尺度を変えたりすることで、こちらの感覚が狂わされるような経験をしたことがある。

大仏もそうだろう。

人間と同じ姿なのに、人間ではあり得ない大きさにする。

尺度が狂うと、いつもの「見る」という行為まで狂う。

ミュエクの彫刻にも、それに近いものを感じた。

青春は、本当はそんなに美しくなかった

《若いカップル》も忘れられない。

一見すれば、少年と少女が寄り添っている。

まだ恋愛にも慣れていない、十代の初々しいカップルに見える。

私はそういう青春をあまり経験しなかったので、最初は少し羨ましく眺めた。

ところが後ろへ回る。

少年は少女の手を優しく握っているのではない。

手首をつかんでいる。

そこで作品の印象が変わる。森美術館の解説でも、二人の力関係を考えさせる仕掛けとして紹介されている。

これはうまいと思った。

若い恋愛というのは、後になって思い返すと美しく見える。

だが実際には、もっと不器用だったのではないか。

好きだからこそ相手を束縛したり、自分の理想を押しつけたりする。

優しさと支配欲が、自分でも分からないまま混ざっている。

たった「手首をつかむ」という造形だけで、そこまで想像させる。

彫刻にはこんなことまでできるのかと思った。

忘れてしまった、思春期の居心地の悪さ

《ゴースト》には、水着姿の十代の少女が立っている。

身長は約2メートル。脚は異様に長く、足も大きい。身体のバランスが微妙におかしい。本人も壁にもたれて視線をそらし、居心地が悪そうに立っている。

これを見て思い出したのが、思春期の身体の違和感だった。

中学生くらいになると、急に身体が大きくなる。

男女の身体の違いも突然はっきりしてくる。

昨日までただの同級生だった女の子が妙に魅力的に見えたり、自分自身の身体も自分のものなのに扱いづらくなる。

大人になると、あの感覚を忘れてしまう。

むしろ忘れるから生きていけるのかもしれない。

人間には、嫌だった記憶を少しずつ薄め、青春を後から美しい物語へ作り替える力がある。

ところがミュエクは、それを忘れない。

「青春って、本当はこんなに居心地が悪かっただろう」と、こちらに返してくる。

そこに、彼の恐ろしいほど繊細な感受性を感じた。

舟に乗っていたのは、自分だった

私自身に最も重なったのは、《舟の中の男》かもしれない。

裸の中年男性が、小さな古びた舟に一人で座っている。

オールもない。

どこから来たのかも、どこへ行くのかも分からない。

男は自信に満ちているわけではない。むしろ心もとなげに前方を見ている。公式解説にも「人生の旅がおのずと進んでいくような気配」があると書かれている。

これが妙にこたえた。

人生というものは、本当はこんなものかもしれない。

自分で進路を決めているつもりでも、気がつけば舟に乗せられている。

四十代になり、

「あのとき別の道を選んでいれば」

「あの人と一緒になっていれば」

「もっと違う人生があったのではないか」

などと考えることがある。

最近、村上春樹の『国境の南、太陽の西』を読んだこともあって、なおさらそう感じた。

あの小説にも、「別の人生があったのではないか」という思いに取りつかれた人間が出てくる。

ミュエクの舟の男を見ていると、その問いを立体にして目の前へ置かれたようだった。

だから笑えなかった。

「面白い作品ですね」と一歩引いて見ることができなかった。

舟に乗っているのが、自分に見えてしまったからである。

母子像の幸福を、簡単には信じさせてくれない

《買い物中の女》もそうだった。

赤ん坊を抱え、両手には買い物袋。

母親と赤ちゃんと聞けば、普通は幸福なイメージを思い浮かべる。

ところが、この女性はどう見ても疲れている。

ミュエクは、ロンドンの街角で実際に見かけた母親をきっかけに、この作品を作ったという。森美術館も、西洋美術の「聖母子像」の現代的な解釈として見ることもできると紹介している。

これも嫌なほど現実的だった。

「家族を持つことは幸福だ」

そういう物語だけでは終わらない。

子供を愛していても、重いものは重い。

生活は生活である。

責任は毎日やってくる。

私は人生の中で、「もしあの人と結ばれていたら」というような別の人生を考えることがある。

だが、この母親を見ていると、もし別の人生を選んでいたとしても、そこにはそこなりの重さがあったのだろうと思わされる。

理想の人生など、遠くから見ているから理想なのである。

人間は、格好よく生きられない

《チキン/マン》では、下着姿の老人が一羽の鶏と向き合っている。

何をしているのかよく分からない。

老人は困惑しているようにも、警戒しているようにも見える。鶏もまた彼を見返している。

私はそこに、生き物を食べて生きている人間の業のようなものまで感じた。

私自身、魚を扱う仕事をしているからなのかもしれない。

人間は他の生命を食べなければ生きていけない。

食べ、働き、欲し、老いる。

そこには崇高なものもあるが、同時にどこか滑稽で、生々しく、格好の悪い部分もある。

ミュエクは、人間を格好よくしてくれない。

むしろ私たちが普段服や肩書きや言葉で隠している部分を剥がしてしまう。

だから作品の前で少し困る。

最後に残るもの

《マスクⅡ》では、眠っている作家自身の巨大な顔が横たわっている。

毛穴も髭も皺も恐ろしくリアルなのに、後ろへ回ると中は空洞である。

「これだけ人間らしく見えても、中は空なのか」

そう思うと、何とも言えない虚無感がある。

そして最後の《マス》。

巨大な頭蓋骨が、空間を埋め尽くしている。

私がその場で数えた感覚よりはるかに多く、作品は実際には100点の巨大な頭蓋骨から構成されているという。

どれほど美しくても。

どれほど金を持っていても。

どれほど偉くなっても。

恋愛で成功しても失敗しても。

最後には骨になる。

あまりにも単純な話である。

西洋美術で繰り返し描かれてきた「メメント・モリ――死を忘れるな」という主題そのものでもある。

しかし、それを文章で読むのと、巨大な頭蓋骨の群れの中に自分の身体を置くのとは全然違う。

またミュエクに、身体の感覚を狂わされる。

美しくない。それでも芸術なのだと思った

前日にルネサンス絵画を見ていたことも大きかったのだと思う。

私はやはり、美しいものが好きなのだ。

美しい女性の肖像。

整った構図。

色彩。

そこに立って、ただ「美しいな」と思っていたい自分がいる。

ロン・ミュエクには、それを許してもらえなかった。

彼の作品に出てくるのは、疲れた母親であり、居心地の悪そうな少女であり、頼りない中年男であり、老いた男であり、最後には骸骨である。

それほど美しくない。

むしろ時々、不快ですらある。

しかし考えてみれば、人間の人生そのものが、それほど美しくできていない。

嫉妬もある。

後悔もある。

孤独もある。

老いもある。

「あっちの人生だったらもっと幸せだったのではないか」という未練もある。

そして、死ぬ。

普段の私たちは、それをなるべく見ないようにして暮らしている。

ロン・ミュエクは、それを小さくしたり巨大にしたりして、いきなり目の前へ置く。

だから脳が少しバグる。

そして、目をそらせなくなる。

私は今回の展覧会を「好きだった」とは、まだ言えない。

むしろ今の自分には、かなりこたえた。

けれども、不思議なことに、こうして帰ってきてからも作品のことを考え続けている。

美しいものを見て「きれいだった」と満足する芸術とは、まったく違う。

人間の中にある、普段は隠しておきたいものを掘り起こし、

「それでも、これが人間なのではないか」

と目の前に差し出す。

その意味で、ロン・ミュエクは恐ろしく深い芸術家なのだと思う。

そして、おそらく私は作品を見ていたのではない。

あの巨大な人間たちを鏡にして、

ずっと自分自身を見ていたのだ。

——そんな展覧会だった。

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この記事を書いた人

鮮魚の現場で働きながら、美術館・博物館、文学、映画、旅、仕事や人生について、実際に見たこと・経験したことを自分の言葉で記録しています。検索でたどり着いた方にも、何か一つ持ち帰れる文章を目指しています。

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