
新宿バルボラの咲良おとさんには、劇団四季『恋に落ちたシェイクスピア』を観劇したその足で、夕方17時30分に会うことになった。会って早々、舞台の話を振ったのは、彼女の写メ日記に「おとは、音楽が人生だったから」と書かれていたのを読んで、四季にも興味があるのだろうと思ったからだ。
ところが彼女は、
「昔はよく観ていたけど、今はほとんど行かないんです」
と少し笑いながら言った。
この何気ない言葉の重みを、私は後になって痛感することになる。
■2歳から音楽。相対音感を持つ“本物の才能”
おとさんは、2歳の頃から音楽を学び、自然と相対音感が身についたという。
耳コピでピアノを弾く――いわゆる「ハラミちゃん」のようなこともできるらしい。
私は「天才だ」と驚いたが、本人曰く、
「音大に入るなら、それは前提条件なんですよ」
という。
この言葉に、胸がざわついた。
人が本気で身につけた力を武器に生きようとするとき、そこには常に過酷な競争がある。
どの業界でも、世界が変わっても、それは同じなのだと改めて感じた。
■才色兼備というより、“生きるために努力してきた人”
店長の紹介文では「白い肌と黒髪のコントラストがアイドルのよう」と書かれていたが、実際に会ってみると、それが誇張でないとよくわかる。
上品で賢く、話していて心が軽くなる女性だった。笑えばこちらまでつられて笑ってしまう。
ソープランドに通う中で知ったのは、
容姿だけで指名がつくわけではない。教養と会話の質が、客の心をつかむ
という現実だ。
おとさんは、そのどちらも持ち合わせていた。
■徹底した“安心の手つき”と、恋人のような距離感
洗い方から風呂への誘導まで、マニュアルに忠実で、衛生面の安心感も大きい。
風呂場で一緒に歯を磨いた時は、まるで本当に付き合っている彼女のようで、胸が締めつけられた。
そして、彼女は“キス魔”らしく、深いキスで完全に心がとろけてしまった。
だが、ふと疑問が浮かんだ。
なぜここまで献身的になれるのか?
その答えは、話しているうちに少しずつ見えてきた。
■奨学金、自分で学費を払い続けた青春。
才能があっても、お金がなければ道は開かれない。
彼女は音大の学費も生活費も、自分で背負ってきたという。
芸能界に少し関わっていた時期もあったらしいが、決して華やかな世界ではなかった。
音楽や空手など、幼少期から打ち込んできた才能があっても、
大学に進み、その能力を伸ばすには莫大な費用がかかる。
レッスン、発表会、移動費、楽器の維持費――。
「才能があるだけでは、ほとんどの夢は開花しない」
という現実が、胸に迫った。
以前、新宿「深海魚」にいた空手で全国3位の女性も、
「親に負担をかけたくない」という理由で身体を売っていた。
それが他人事には思えなかった。
私だって、もし何かの才能があれば大学で伸ばしたかった。
だが、学費は高すぎて、初任給から返せる額ではない。
結局、お金がある家の子が圧倒的に有利なのだ。
おとさんを前にすると、その不公平さが強烈に胸に刺さった。
■魅力的だからこそ、もう会えない。
彼女は魅力的だ。
上流階級の女子高生と恋人になったかのような錯覚に陥らせる。
だが――その魅力が鮮明になるほど、私は一線を越えてはいけないと思った。
人格を持った一人の女性を、お金と引き換えに扱うことはできない。
好きになってしまった以上、もう会わない方がいい。
遊びの場で感情が本気になると、誰も幸せにならない。
それは彼女にとっても迷惑だ。
■最後に、彼女へ。
音大の学費は高く、バイトも満足にできず、心身を削りながら生きてきたのだろう。
だからこそ、のんきに劇団四季へ行く余裕などなくなる。
それでも、お母さんの誕生日にディズニーへ行き、笑顔を見て喜んだという彼女は、情の厚い優しい人だ。
ディープキスをしている間、私は四十路のただの男にすぎなかった。
それなのに、ここまで献身的にしてくれる彼女を見て、
“もしかしたら、自尊心を傷つけられる経験もしてきたのではないか”
と胸が痛んだ。
彼女には、本来――
誇りを持って生きていける価値がある。
そう伝えたかった。
『恋に落ちたシェイクスピア』のヒロイン・トマス・ケントのように、
誰かに愛され、魅力を咲かせる人生を歩んでほしい。
どうか、たくさん稼いで、
好きなジャズダンスのように自由で、美しく、計画的で無計画な人生を
軽やかに踊り続けてほしいと、心から願っている。
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