
今回の未解決事件――いわゆる「世田谷一家殺害事件」のように、状況証拠が揃っていながらも長年犯人が捕まらなかった事件――が、ついに逮捕に至ったという報に接した。Yahoo!ニュースで速報を見た瞬間、私は奇妙な安堵と、説明しがたい高揚を覚えた。なぜだかわからないが、「ようやく報われた」という感覚だった。そこから私は、事件の経緯を知りたくて、深夜までネット検索の手を止められなかった。
事件の概要を追ううちに、私は次のように結論づけた。
――これは、安福久美子容疑者がかつて抱いた一方的な恋愛感情が、長年の執着と妄想に転じ、最終的に殺意として噴出した事件である。
高校時代、彼女と被害者の高羽悟さんは同じ軟式テニス部に所属していた。安福容疑者はたびたび悟さんに交際を申し込み、断られ続けたという。大学進学後もその思いを断ち切れず、悟さんの大学の試合を訪れたり、練習を三時間以上も黙って見つめていたりした。その様子を悟さんは不審に感じ、帰り際に駅前の喫茶店で話を聞いたことがあったという。
それから十九年の歳月が流れた。軟式テニス部の同窓会が開かれ、悟さんは十一歳年下の妻と二歳の子どもがいると報告した。再会の場で、安福容疑者は「結婚して仕事に勉強に大変ね」と明るく声をかけた。だが、その明るさが、悟さんの記憶にある彼女の印象とあまりに違い、悟さんは不思議な違和感を覚えたという。――その明るさこそ、心の闇の裏返しだったのかもしれない。
五か月後、悟さんの留守中に安福容疑者は彼の自宅に侵入し、妻・真美子さんを刺殺した。自らも怪我を負い、血痕と指紋を現場のあちこちに残したまま逃走。複数の目撃証言もあり、事件は素人による激情的な犯行の典型といえた。しかし当時(2003年前後)は防犯カメラの普及が乏しく、捜査は難航。証拠があっても決定的な映像がない――そうした「空白」が、事件を長年の未解決へと導いた。
被害者の妻・真美子さんと安福容疑者の間に面識はなかった。動機はただ一つ、悟さんへの偏執的な恋慕である。彼女は悟さんを「幸福の象徴」として観念化し、その観念に取り憑かれていった。現実と理想が乖離するほど、苦しみは増し、ついにはその「幸福の観念」そのものを滅ぼすことで自らの苦しみを終わらせようとした――そう考えると、秋葉原無差別殺傷事件や京都アニメーション放火事件、安倍元首相銃撃事件などと、深層心理における構造は似通っている。
幸福への観念に縛られた人間が、その観念を破壊することで、逆説的に「再生」しようとする――そうした悲劇の系譜である。
私自身も、幸福の観念に苦しんだ経験がある。生き方の価値観、成功の定義、人から押しつけられた「こうあるべき」――そうした後天的な観念に囚われてきた。安福容疑者の場合、それが「悟さん」という一個の存在に凝縮され、自己と幸福の境界を見失っていったのだろう。
一方で、多くの人がSNSで「悟さんはなぜ彼女の犯行を疑わなかったのか」と書き込んでいた。しかし私は、そこに人間の防衛機制が働いていたと考える。もし彼が、かつて自分に好意を寄せた女性が妻を殺したと認めたなら、自責と罪悪感で心が崩壊してしまっただろう。だからこそ、脳はその可能性を無意識に排除し、現実を歪めてでも自己を守ったのだ。
「何かを隠している」と世間は言いたがる。だが、私はそうではないと思う。本当に受け入れがたい現実は、人を無意識に沈黙させる。酒鬼薔薇聖斗事件の加害少年の母が、警察から「息子が犯人だ」と告げられるまで一切疑わなかったというのも同じ構造だ。人間は、自我を守るために、記憶さえ書き換えてしまうのだ。
戦後、アウシュビッツの元看守がユダヤ人を名乗って逃亡していたが、捕まった際、本人は本気で「自分はユダヤ人だ」と信じていたという。脳の可塑性とは、つまりそういうことだ。人間は、最も耐えがたい現実を忘れることで、ようやく生き延びられる。
悟さんは、事件後も息子を立派に育て上げ、妻の友人の娘と再婚し、犯罪被害者遺族の会「宙の会」の会長として社会活動を続けている。二十年以上、ビラ配りを続けながら、自らの過去を背負って生きる姿は、むしろ尊敬に値する。もし彼が当時、すぐに安福容疑者を疑っていたら、彼自身の人生は壊れていたかもしれない。
だから私は、捜査協力に消極的だった彼を責める気にはなれない。
人は、少数派であるというだけで、社会の中で知らず知らずのうちに痛みを抱える。独身であること、モテなかったこと――私自身、そのような立場から世間の無意識の偏見に傷つくことがある。被害者遺族もまた、社会からの同情と好奇の狭間で孤立してきたに違いない。だからこそ、事件がようやく解決した今、これ以上は、彼らをそっとしておいてほしい。
そして私は思う。
――私もまた、悟さんのように、過去と向き合いながら、それでも前へ進む力を持ちたい、と。
コメント