今日も図書館で、ブログを書いたり、調べものをしたりしようと考えていたのだが、行ってみると、休刊日となっていた。私は、そばにあるトイレに入り、便器に座りながら、スマホをいじっていた。食事を終えてから、ここに来るまでの間、秋風が身に沁みたのか、前の職場にいた五十路でオシャレな女性に好意を寄せられていたことを思い出し、なんだかそばにいて欲しくなってしょうがない気持ちが堪えなくなった。
私が44歳であるから、10歳ぐらい上であるけれど、私には、どうしても、年上の優しくて色気のある女性が好きなようで、甘えたいという思いが強くあるからだろう。年上のような落ち着きがあって、年下のような色気があるというのは理想なのだろうけれど、そううまくはいかないのが人生だ。
トイレで、スマホの写真をみながら、伊藤聡子の画像に目をとめた。ちょうど五十路でありながら、画像の中では、オシャレな出で立ちで、得意満面にポーズをとった被写体となっている。脳裏に、職場にいたあの女性がオーバーラップして、私は、右乳首を左手の爪先でコリコリといじる。すると、勃起をした。
このように、抜くという行為は、現実と飛翔が必要であり、アイドルの写真、AVのような過激な内容まで、観ながらも、現実の観念がそこに存在しなげれば、射精に至ろうとする強い願いが生じないのだ。それは大人になったからだろうか? 子供(中学生)の自分では、気持ちが高揚してきて、ずっと、していたい、射精後も、またすぐこれをするんだと言い聞かせて射精に至るが、一転、賢者モードになって終わりを迎える。
昨日、くら寿司のトイレで、1ヶ月前と同じように、本田望結の童顔と胸の大きさのギャップをもろに表したXの動画を探して、また、マスをかいた。これは、犬と同じ、場所によるこだわりの本能が、そうさせたのかもしれない。そして、2度目は、どうしても、以前のような快感を得られないもので、これだから、人類は、不満のうちに発展し、または、停滞もするという習性があるともいえるのではないだろうか。
伊藤聡子の色気で抜くという行為は、熟女に魅力を感じた時に、その結晶作用をより具体的に表した作用であり、それは、彼女のグラビアによって、一層、うまくなされているものであり、多くの男性のおかずになりうるものであろう。
抜いた画像↓











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