16歳の安部公房に学ぶ――自分の目で見て判断するということ

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若き日の安部公房と、私の原点

私と安部公房の生い立ちは大きく異なる。彼は小学生のころから完全なエリート教育を受け、3年生にして年間250冊の「有益」とされる本を読破させられ、数学の天才と評された人物だ。
一方で私は、「自分の目で見て、自分の判断で生きられる大人になりたい」と痛切に感じながら育ってきた。まったく違う環境にいながらも、彼が16歳の高校生として書いた文章を読むと、不思議と似た志向を感じるのだ。ただし私には、それを言語化する言葉がなかっただけなのだろう。

彼の一文を紹介したい。

「今こそ、総ての判断は指で触れ、目で見た上で為されねばならぬ。其の時に始めて総てのものに価値が、一切のものは無価値であると云う判断にすら価値が生じて来るのである。その日から真の歴史は書かれ始めるのである。その時にこそ、太陽は輝き始めるのであろう。」

これは「問題下降による肯定の批判―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―」という文章に記された言葉だ。
反省とは単なる自己批判にとどまらず、批判すらも批判するほどのメタ的な営みであり、現存在そのものへと遡行し、現実を根源から照らし出す行為なのだと諭されているように思える。

全集を手に入れてよかったのは、まだ商業主義に染まる前の「裸の心」で書かれた文章に出会えたことだ。そこにはすでに、のちの彼のテーマが内包されている。才能とは早い段階で姿を現すものであり、それが時代に合うか否かで、スポットライトを浴びるかどうかが決まるのだろう。


16歳の安部公房が問いかけたもの

16歳の彼の文章には、「人間とは何か」という根源的な問いが刻まれている。ひとつも欺瞞のない言葉であり、彼の執筆態度の哲学そのものといえる。そして、歴史上の偉人たちに臆することなく挑む姿勢は、読む者を強く打つ。

「だが実は地球に於て人類の歴史が始まって以来、高く新しき板を掲げたニイチェがやっと百歩進んだのに過ぎないのだ。ドストイエフスキイは幾度も立上ったが二三歩毎に息切れがした。そして又立上る迄は行かず、這い廻って居た程度の人でも吾々は大して捜し出すのに手間は要らぬ。その先は全く未開の地だ。」

若き日にここまで力強い志を抱き、なお「彼らですらその程度なのだ」と見据える心意気。私はただ感嘆するばかりだ。そして私は誓う。世間の評価に流されることなく、必ず自分の目で見て、触れて、判断することを。


万博を前にして

ところで私は今、大阪万博に一日だけ足を運ぶ計画を立てている。楽しめばいいだけのはずなのに、どうすれば人気パビリオンの予約が取れるか、何度も調査を重ね、シミュレーションに余暇を費やしている。まるで一大事のように。
「そんなに大切な日なのか」と自問しながらも、少しでも後悔なくその日を過ごしたいからこそ、神経を使ってしまうのだろう。

夜は飛田新地を観光し、近くの東横インに泊まる予定だ。荷物はできるだけ軽くして、少し強行軍になりそうだが、それも含めて「価値ある体験」にしたい。
あの「問題下降による肯定の批判―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―」の精神を胸に、私自身の歴史に刻めるような一日にしたいと思う。

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