広陵高校の勝利が意味するもの──「勝てばチャラ」なのか?

いじめが報道されてもなお、チームが勝ち進めばすべてが正当化されるのか?
「勝てば償われる」そんな空気がまかり通るのであれば、それは極めて危険なメッセージである。

スポーツが学校のイメージアップのためのツールになっているならば、今回のような問題は、単なる一部の逸脱では済まされない。


■ 私が受けた「野球部のしごき」はこうだった

私は、東京の私立高校で野球部に所属していた。そこでは、**いわゆる“しごき”**が当たり前のように存在していた。

  • 部室で正座させられ、バットを足に挟まれ「声を出せ」と恫喝される
  • 顔すれすれにボールを投げられ、「人間壁当てだ」と言われる
  • 腕立て伏せ中に腕を蹴られ、怪我寸前になる

今思えば、一歩間違えば大事故になりかねない行為ばかりだった。


■ いじめを終わらせた「ボイコット」の決断

私たちの代では、ついに我慢の限界が来た。同期全員で練習ボイコットを決行し、ようやく暴力は収まった。

だが、全員が同じ痛みを感じていたわけではない。
「そのくらいは当たり前」「自分は可愛がられていたから関係ない」と、先輩側に立つ者もいた。
“甲子園を目指す”という夢の前では、いじめの線引きさえ曖昧になる現実がある。


■ 大谷翔平の時代に、なぜ昭和の暴力が残るのか?

令和の今、世界で活躍する大谷翔平や村上宗隆のような選手たちがヒーローになっている。
そんな時代に、部室で殴る・蹴るといった旧時代の暴力がいまだに行われているというのは、極めて遺憾だ。

いまだに高野連が不祥事を“揉み消し”にかかっているように見えるのも、時代錯誤の象徴だ。


■ スポーツの「神聖化」が日本のスポ根を腐らせる

日本では「スポーツは人格形成の場」とされるが、それが暴力の免罪符になってはいないか?

  • 坊主頭=健全の証
  • 厳しい指導=美徳
  • 部活は精神鍛錬の場

こうした**“スポ根神話”**は、もはや限界を迎えている。
高校野球の閉鎖性が、若者の野球離れを加速させていることに、いい加減気づくべきだ。


■ 出場辞退こそ、真の償いではないのか?

五輪選手が喫煙一つで出場を取り消される時代だ。
もし、広陵高校のいじめ・暴力が事実であるならば、潔く出場を辞退するべきではないか?

「選手は悪くない」とは言うものの、社会の信頼の上にスポーツが成り立っている以上、
勝利よりも大切なものがあることを、私たちは忘れてはいけない。


■ 結論:高校野球に必要なのは「勝利」よりも「透明性」

もう、時代は変わった。

部室での暴力やいじめは、決して“伝統”でも“文化”でもない。
それを見て見ぬふりする指導者・学校・連盟の姿勢こそ、いま問い直されるべきだ。

高校野球が未来へ進むためには、まず**「過去の闇」に光を当てること**から始めるべきではないか?

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この記事を書いた人

大日如来参上のブログへようこそ。ここでは、性の本質、結縁の道、聖地巡礼、社会の問題、舞台や映画のレビュー、そして智慧の書など、多様なテーマを通じて、内なる美と智慧を探求します。
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