ニューヨークで暮らす若い中国系移民2世の女性・ビリー。彼女は2歳で両親と共に渡米したため、中国語があまり得意ではない。そんなビリーが、余命わずかと宣告された祖母(ナイナイ)の住む中国・長春へと向かうところから、この物語は始まる。
アメリカで育った彼女が、中国本土で直面するのは「患者本人に癌を告げない」という慣習。インフォームド・コンセントが当たり前のアメリカ文化で育ったビリーには、この嘘が不条理に映る。だが祖母を愛するがゆえに真実を明かせない家族たち――彼らはアメリカ、日本、中国と国際的に離散しながら、一堂に会し“偽り”の結婚式という名目で祖母との最後の時間を過ごそうとする。
この映画は、単なる家族ドラマではない。告知の是非をめぐる文化の違いを、英国留学経験のある若い中国人医師まで巻き込み、ハートフルかつユーモアたっぷりに描き出す。医師たちは悪性腫瘍を「良性」と書き直し、欧米文化を知る者でさえ、自然に“嘘”で患者を包み込む。かつて日本でも病名告知を控える時代があり、国によっては「隠すこと」がむしろ“優しさ”として機能していたことを、私たちは思い出さずにいられない。だが、診断書を堂々と書き換える行為には、さすがに面食らう。「いい加減」と映るその曖昧さも、中国という大国が孕むエネルギーや混沌、そして豊かさのリアルとして受け止めるほかない。
泣き屋が存在したり、背中にマッサージの跡が残るシーンにクスリとさせられたり、結婚式の派手な騒ぎに圧倒されたり――異文化に触れる度、我々は笑いと興味、そして戸惑いを同時に味わう。ナイナイは日本人花嫁に懐疑的で、その一方でビリー自身が祖母以上に中国文化へ距離を感じているとは想像もしない。長春のホテルの一室で、ニューヨークで見たはずの小鳥が羽を休める幻想的なカットに、監督ルル・ワンがアメリカと中国という巨大な二つの世界をつなぐ“見えない架け橋”を信じていることを感じ取るのは容易だ。
私にとってこの作品は、なぜか亡き祖母を思い出させる。かつて日本の漫画雑誌『マガジン』で読んだ、病名を隠す描写が当たり前だった時代。近年、人権意識が高まり、隠すことは人権侵害だとも言われるのが通例だ。しかし、本当に告げることが「相手への誠実」なのか? あるいは、真実を伏せることこそが、相手を思いやる究極の誠実さなのか? この映画は問いかける。東西の価値観が交錯するなかで、生と死の狭間に立たされた人々が、何度も考え、悩み、その行為そのものが愛として立ち現れてくる。
家族愛に包まれたストーリーは、私が抱いてきた「家庭が諸悪の根源」という猜疑心すら淡く溶かしていく。太宰治や三島由紀夫が小市民的なホームドラマを嫌悪していたように、私も“臭み”を感じていた。けれど、祖母が亡くなり、49日法要でその面影に触れたとき、この映画で描かれる嘘の優しさが胸を突く。それは現実よりもリアルで、嘘が真実以上の重みを持つ瞬間だ。終盤、ビリーが太極拳を放つシーンで鳥たちが一斉に舞い上がるとき、そこにはカタルシスが待っている。アメリカという移民国家がこの作品をオスカーで評価しなかったのは、フロンティアスピリッツへの讃歌が足りないからかもしれない。だが、そんなことはもうどうでもいい。
祖母がどこへ行ってしまったのか分からない今、私たちは映画や小説、そして思い出のなかに彼女を生かし続ける。嘘もまた、愛を紡ぎ出す一つの「真実」なのだ。この映画『フェアウェル』は、私たちにそう囁きかける。
さあ、多くの嘘を、これからも期待して――。
そしてその嘘の中から、あなた自身の「本当の愛」を見つけ出してほしい。