「インサイド・ジョブ」というドキュメンタリーは、2008年に世界を揺るがしたリーマンショックの原因を抉り出した作品です。銀行や投資会社、格付け会社、そして政治家や学者までもが一本の線で結ばれ、世界経済を土台から崩しかけた複雑な金融構造が明らかにされます。もともと、家を買いたい人たちへの住宅ローンが、金儲け優先の投資商品に変貌し、それを誰もきちんと制御しないまま肥大化していった――そんな欲望と制度の甘さが引き起こした惨事でした。
こうした話は、ここまで多くの人が聞いたことがあるでしょう。しかし、私がこの映画を観た背景には、もっと個人的な動機があります。ここ5年間で、新しいNISAの非課税枠・1800万円を埋めてしまおうと思い立ったものの、「本当に大丈夫なのか?」という不安が拭えないからです。投資先を考える上で、かつて世界を震え上がらせた金融破綻を振り返れば、リスクへの直視を避けるべきではないでしょう。ところが、映画を観終わった後、私の不安はさらに増幅してしまいました。
ショックだったのは、あのリーマンショックに格付け会社S&P社や、いわゆる「オルカン(オールカントリー投信)」の中で存在感を示す米国の有名金融機関モルガン・スタンレー社などが深く関わっていた点を改めて突きつけられたことです。世界中で基準のように扱われるS&P500、その背後のS&P社が、あの混乱に一枚噛んでいた事実を再認識するのは、未来に資金を委ねる投資家にとっては複雑な気分です。
映画内で印象的だったフレーズがあります。「金融商品を想像する金融工学は、ものを作るエンジニアより儲かる。それは夢を売る仕事だからだ。」 なるほど、現実の商品を売るより、人々が「これからもっと良くなるかもしれない」という幻想(期待値)を売る方が儲かる――そう考えれば金融は確かに「夢を売る産業」です。人は現状に満足しない。将来のより良い生活を夢見て、投資する。そこにつけこむ欲望とシステム、これこそがリーマンショックの原因の一つだったのでしょう。
さらに不快だったのは、多くの「犯人」が多額の報酬を得て、さほど痛手も負わずに逃げ切っているように見えることです。資本主義の光の裏には、こうした陰がある。「インサイド・ジョブ」の編集や視点がすべて正しいとは限らないでしょうが、ウォール街と政治、学問と欲望が絡み合う構造は、この映画が見せる“臭いにおい”から目を背けるべきではないと感じました。作者が最後に映し出す自由の女神像は、「この現実を直視せよ」というメッセージにも思えます。
「醜悪なものを見たくないから」といって目を閉じてしまうのは、表現者としても、投資家としても、結局はリスクを見過ごすことになるのです。
アメリカは、歴史的にウォール街と政界が密接な関係を築いてきました。オバマ政権下でもその図式は崩れず、アメリカ
政治がウォール街政権であるという指摘は的外れではないでしょう。今、私が米国株投資をためらう理由は、こうした金融支配構造を目にした上で、「アメリカはもう本当に大丈夫なのだろうか?」という思いが募るからです。1%の勝利者と化した超富裕層、貧困にあえぐ中流以下の層。株主を優先し、インフレを歓迎して成長を狙う経済モデルも、どこかで限界がくるのではないか。そんな不安は拭えません。
それでも、アメリカ合衆国は巨大な市場であり、技術革新が起きやすく、地理的にも隣国カナダとメキシコに挟まれ、すぐに戦争被害を受ける可能性は低い。核戦争の打ち合いでも起きれば、世界経済どころか人類の存亡が問われるわけで、そう考えれば世界で資金を置く先として「外貨建て」する意味はある。
ここ20年、アメリカ経済は世界の中心として輝き、S&P500は右肩上がりを見せてきました。そうした歴史的事実を踏まえれば、やはり投資先として「アメリカ」を視野に入れることは理にかなう面もある。心は揺れます。葛藤は絶えず心を蝕むものです。
私自身は「FIRE」――つまり経済的自立による早期リタイアを目指し、両親との死別後は、映画や読書、ブログや創作に明け暮れる日々を送りたいと考えています。そのためには資本を増やし、好きなことに打ち込む下地を作る必要がある。そんな将来設計の中でアメリカ株は重要な位置を占めている一方で、この映画が突きつける腐臭漂う世界に嫌気がさす気持ちもあるのです。
それでも、映画は最後に「現実と向き合え」というメッセージを残します。いくら不愉快な真実でも、目を背けた先には空虚な幻想しか残らない。どんなに嫌な構図や仕組みが見え隠れしても、それを理解し、受け止めた上で意思決定を行わなければ、表現者としても、投資家としても、意味のない浅い存在になってしまうでしょう。
リーマンショックを踏まえ、現在のアメリカを取り巻く状況を見渡せば、不安は尽きません。それでも、夢を売る国アメリカは、イノベーションによって新たな光を生む土壌を持ち続けています。
私は悩みながらも、オルカンへ、アメリカへ、再び視線を戻すことになるのでしょう。そうやって、理想と現実のはざまで揺れ動く心を抱えつつ、投資という行為の本質を、今一度噛みしめているところです。
表現者として、投資家として、人生を綴る一人の人間として――その迷いとともに。