老人ホームに通い、祖母に会いに行っていた日々が、昨日のことのように思い出される。しかし、もう祖母はこの世にはいない。その喪失感がふと胸を締め付ける。私の独身生活を心配し、優しく見守ってくれた祖母には、もう二度と会うことができない。頻繁に会えたわけではないが、祖母の愛情はいつも感じていた。社会人になったばかりの頃、300万円ものお金を手渡され、その意味を深く考えたこともなかった。夏になると「夏すこやかに」と書かれた手紙と共に届いた煎餅の包みも、今になって記憶の中で鮮やかに甦る。
祖母の家があった桜ヶ丘は、すっかり様変わりしていた。今ではプレハブ小屋が立ち並び、昔の面影はどこにもない。すべてが流転の中にあり、私が今住むこの場所も、いずれ思い出の一部になるだろう。時の流れの中で、私自身も何者かにはなれないまま。それでも、それは私だけではなく、誰しもが抱える普遍的な感覚ではないだろうか。
一方で、社会で何者かになろうと必死に奮闘する人々の姿を見ると、無力感を覚えることもある。例えば、SNSでキラキラ女子を演じ、自慢のバーキンバッグを掲げる折田楓さんのように。人間の価値とは、社会的なつながりの中でしか生まれないものなのだと、改めて感じる。
この人生、多くの人と出会い、多くの別れを経験してきた。そして今、私は独りだ。しかし、生まれる時も死ぬ時も独りなのだから、独りを恐れる必要はないのだろう。
SNS中毒と現代の知能の行方
最近、岡田斗司夫がYouTubeで「SNS中毒は知能指数を低下させる」と語っていた。確かに、情報に飲み込まれる現代社会では、知識欲をコントロールする必要がある。しかし、TikTokのようなSNSが知能指数を下げるという考えには疑問が残る。娯楽として楽しむ人もいれば、その中に現代の無限の情報や文化の断片を見出す人もいるのではないか。重要なのは、高級な知識と低級な娯楽をバランスよく楽しむことだ。
群れとしての人間――ネット社会の動向
情報共有が加速する現代、人間は「いわし化」しているという話がある。話題が起これば一斉に注目し、飽きると散らばる。その繰り返しがネット社会の特徴だ。この「脳化社会」とも呼べる現象の中で、私たちはどのように自分の軸を持つべきなのだろうか。
書くことでしか、自分の思考を整理する術を知らない私は、今日も文字を紡ぐ。祖母との思い出や、現代社会の矛盾を綴りながら、何か新しい気づきを見つけることを願って。