熱海発の電車に乗り、12時30分に伊東駅に到着しました。そこから東伊豆の道をひたすら南下し、最終目的地の下田を目指します。途中、温泉を売りにした旅館の大きな看板が何度も目に入りました。また、道中で怪しい建物を発見しましたが、果たしてここに入る人はいるのでしょうか?
三島由紀夫の「真夏の死」の舞台となった今井浜の近くで車を降りました。駐車場の料金は500円でしたが、休業中のホテルの前に車を停めて浜辺を散歩しました。以下は、三島由紀夫「真夏の死」に関するウィキペディアからの引用です:
「生田朝子(ともこ)は3人の子供の母である。ある夏の日、朝子は6歳の清雄、5歳の啓子、3歳の克雄と、夫の妹の安枝とで、伊豆半島の南端に近いA海岸の永楽荘に遊びに来ていた。事件は朝子が永楽荘の一室で午睡をしている間に起きた。3人の子供と安枝は海に出ていた。そして2人の子供、清雄と啓子は波にさらわれてしまう。驚いた安枝は海に向かうが、襲ってきた波に胸を打たれ心臓麻痺を起す。一時に3人の命が失われた。1人残された子供の克雄を溺愛しつつ、この衝撃から朝子は時間の経過とともに立ち直っていくが、それは自分の意思に関係なく悲劇を忘却していく作業であった。朝子は自分の忘れっぽさと薄情が恐ろしくなる。朝子は、母親にあるまじきこんな忘却と薄情を、子供たちの霊に詫びて泣いた。朝子は、諦念がいかに死者に対する冒涜であるかを感じ、悲劇を感じようと努力をした。自分たちは生きており、かれらは死んでいる。それが朝子には、非常に悪事を働いているような心地がした。生きているということは、何という残酷さだと朝子は思った。冬のさなか、朝子は懐胎する。しかし、あの事件以来、朝子が味わった絶望は単純なものではなかった。あれほどの不幸に遭いながら、気違いにならないという絶望、まだ正気のままでいるという絶望、人間の神経の強靭さに関する絶望、そういうものを朝子は隈なく味わった。そして晩夏に女児・桃子を出産する。一家は喜んだ。桃子が産まれた翌年の夏、事件があってから2年が経過した晩夏、朝子は夫に、A海岸に行ってみたいと言い出す。夫・勝は驚き反対したが、朝子が同じ提言を3度したので、ついに行くことになった。勝は行きたい理由を問うたが、朝子はわからないという。家族4人は波打ち際に立った。勝は朝子の横顔を見ると、桃子を抱いて、じっと海を見つめ放心しているような、何かを待っている表情である。勝は朝子に、一体何を待っているのか、訊こうとしたが、その瞬間に訊かないでもわかるような気がし、つないでいた息子・克雄の手を離さないように強く握った。」
この今井浜は、伊豆半島の南端に近く、まだ俗化されていない素晴らしい海水浴場です。海底の凹凸が多く、波がやや荒いですが、水の清らかさと遠浅であることから、海水浴に適しています。ここは湘南地方の海岸ほど賑わっていないため、交通の不便さがその要因となっています。伊東から乗合自動車で2時間を要し、白い砂浜が美しく、浜の中央に松を戴いた岩山があり、満潮になると波が岩山の半ばを濡らします。この海岸の眺望はいかにも美しいものでした。
散策を終えた後、下田へと車を急ぎました。三島由紀夫が「大和魂があり素晴らしい」と称賛した吉田松陰像のある三島神社にお参りし、さらに近くの松陰が弟子とアメリカへの渡航を企て隠れた弁天島を訪れました。ここには立派な大義がありました。
小舟に乗り、黒船に向かう心境で外国文化を取り入れつつ、大和魂を守ろうとする純粋な志が感じられます。まさに決死の渡航であり、現代で最も貶められているのは、三島由紀夫が云う通り、吉田松陰のような強いモラルかもしれません。
これらの風景や体験を通じて、現代における日本人の精神と道徳について改めて考えさせられました。是非、皆さんも伊豆半島を訪れ、この美しい自然と歴史的な場所を感じ取ってください。