5月26日(火)と27日(水)の2日間、熱海、伊東、そして伊豆半島を巡る文学の旅に出ました。三島由紀夫の「月澹荘綺譚」(下田)や、西伊豆の安良里を舞台にした「獣の戯れ」、さらに三島由紀夫ゆかりの老舗である熱海の「ボンネット」や下田の「日新堂菓子店」などを訪れました。
熱海での出発
熱海に到着したのは午前7時でした。駅を降りて海へ向かい、坂道を真っ直ぐ降りていきました。浜辺の近くに、尾崎紅葉の「金色夜叉」の碑と銅像が立っていました。
駅を降りて、海に出ようと真直ぐ坂道を降りていった。浜辺の近くに、尾崎紅葉の「金色夜叉」の碑と銅像が立っていた。
以下Wikipediaより。
「高等中学校の学生の間貫一(はざま かんいち)の許婚であるお宮(鴫沢宮、しぎさわ みや)は、結婚を間近にして、富豪の富山唯継(とみやま ただつぐ)のところへ嫁ぐ。それに激怒した貫一は、熱海で宮を問い詰めるが、宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために、高利貸しになる。一方、お宮も幸せに暮らせずにいた。
お宮を貫一が蹴り飛ばす、熱海での場面(前編 第8章)は有名である。貫一のセリフとして「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」が広く知られているが、これは舞台・映画でのもっとも簡略化したセリフに基づいたものであり、原著では次のように記述されている。
「吁(ああ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処(どこ)でこの月を見るのだか! 再来年(さらいねん)の今月今夜……十年後(のち)の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」[3]
高等中学生の秀才間貫一と、寄寓先の鴫沢の美しい娘宮は許婚どうし。みなからその未来を羨望されている。宮は、銀行頭取の息子富山唯継にかるた会でみそめられ、美貌におごり、金に憧れ、求婚に応じて許婚をすてる。貫一は悲憤して、熱海の海岸で「一生を通して、一月十七日は僕の涙で必ず月を曇らして見せる。月が曇ったらば、貫一は何処かでお前を恨んで今夜のように泣いていると思ってくれ」と言葉を投げて宮と別れ、学業を廃して、行方をくらます。貫一は復讐を思い、死を思う。強欲非道な高利貸鰐淵の手代となり、残酷な商売にしたがい、かろうじてその苦しさを忘れ、自ら金を積み、恨みを晴らそうとする。宮は、富山と結婚し、金に目がくらむいっぽうで、胸の飢えは満たされない。4年後、2人は相見て、宮は、貫一の恨みをとくためにこの境遇をすてようと思う。貫一は、鰐淵が火事で死んだので仕事を受け継ぎ、宮の悔悟の手紙を手にとろうともしない。しかし、親友荒尾譲介から、宮の心情をつたえられて貫一も心がかすかに動揺し、暁の悪夢のなかで悔悟の自殺をした宮に、赦すという言葉を与え、その唇をすう。心はますます苦しくなるが、用事で塩原へ出向き、温泉宿の隣室で男女が心中しようとするのをすくう。その女は富山唯継のえじきになろうとしたものであったから、貫一は宮の周辺の不幸な状況を知る。宮はまえにもまして思いの丈を訴えた手紙を貫一のもとに寄こす。 」
暴力を肯定するものではございませんという注意書きが銅像の右隅にあった。婚活をしていて、本当に好きになった女性が一人いたが、この蹴りたい気持ちはわかるし、貫一の叫びは、純情な男性の恋心を謳っている。この小説で熱海が一躍有名になったということだ。
錦ヶ浦に出るために海岸線に沿って歩いていった。フェリーの着場で釣りをしているおじさん達がいた。生きた小鯵を餌に、あおりいかを釣ろうとしていた。釣り人が小鯵を手にした瞬間、鷹のような大鳥がすさまじい速さで上を通りすぎた。
「狙っていたんだな」とおじさんは愉快に笑った。
近くに停まっていたタクシーに乗り、錦ヶ浦まで案内してもらうことにした。
所有会社のホテルニューアカオがコロナの影響で臨時休業しているため、展望台の扉が閉まっていた。しかし、私は少年時代を思い出して、小さな柵をまたいで中に入った。
錦ヶ浦で自殺をする男女を描いた三島作品に「陽気な恋人」というのがある。行くあてもなくなった若い男女が、高級ホテルに素知らぬ振りをして泊まり、夜中タクシーで錦ヶ浦まで行き、2人で飛び降りるという話である。見下ろすとはるか下の奇岩と波濤が奇怪な生き物に見えるこの場所で怖いなぁとお互い脅かす振りをして陽気にじゃれようとする心境がわからないでものない。とにかく、断崖の絶壁に立つという経験は、言葉の比喩としてはありふれているけど、実際経験してみると、恐怖で笑うしかないのである。昔、心中する男女は、厳粛な面持ちではなく、案外、陽気な様子であったのかもしれない。
タクシーの運転手がコロナの影響が直撃して、今はぎりぎりのところだと嘆いていた。日本国民が1億2590万人いる中で、コロナに感染した人は、5月27日現在で1万5000人程度であるから、それ以外の人達にとっては、どうでもいいことなのだ。特に観光産業に頼っている地域、そこで働く人達にとっては、経済上の死が迫っているといっても過言ではないのだろう。
その後、太宰治、泉鏡花等が執筆した起雲閣の前で降りた。やはり、臨時休業である。木の扉が少し開いているので、その隙間から身体を入れて中に入った。@受付まで行くと、スタッフが驚いたように出てきて、何度も頭を下げられた。
それから歩いて5分ぐらいのところに、三島由紀夫が通ったボンネットという喫茶店がある。
店主が三島由紀夫に水泳を教えた人という話を持ち掛けると、驚いた顔をした。
「教えたというより、少し直したというだけのことでね。伊豆山のところに熱海ホテルがあって、そこの近くに私が住んでいたらから、その際、彼と会ってね。私が航空隊に志願して入ったという話をしたら、えらく興味を持ってくれて、夏になると水泳をしたり、営んでいるこの喫茶店に来てくれたりしていたんだよ」
「水泳はどうでした?」
「身体はボディービルで鍛えていたけど、泳ぎはうまいわけではなかったね」
「どういう雰囲気でしたか?」
「あのままだよ」
「おしゃべりなんですか?」
「あまりしゃべる人では無かったねぇ。腹を切る前はどうでした。様子が違いましたか?」
「3年ぐらい来ないなぁと思っていたら、あの事件があったから、ビックリしたよ」
常連のお客さんが、何歳で亡くなったんだっけ? と聞いても、45だったかなと急に不機嫌になった。それから、三島由紀夫のことが頭をよぎるのか、不機嫌になった。
実際に親交のあった人となると、他人事ではないのだろう。私は三島を歴史上の人物のように見ているのとは違うのだ。こみ上げてきて、言葉にならないものがあるようだった。
三島由紀夫が毎回食べていたハンバーガーをパンにはさんで食べてみた。実際に肉をこねて焼くハンバーグだから、ジューシー感が全然違う。食べログのコメントでは、91歳の店主が頑固爺で、怒りだすというけど、それなりに丁寧に話してくれたから満足だ。
軍隊は運動部の比ではないほど、先輩の暴力なんかひどいか聞くと、連帯責任だから、真夏の行軍では、メンバーの1人が音を上げて脱落すると、そのグループの責任になるから、その人を誰かが担いでゴールを目指さなくてはいけない。連帯意識というのは、運動部とは違って、非常に強かったねと懐かしそうに語っていた。
誰がレギュラーになるというものではないから、後輩をいじめたりするような陰湿さはないというのはうなずける。
店を出て熱海駅まで曲がりくねった登坂を歩いた。土産物屋もほとんど休業で、賑わいもなかった。人のいない観光地は、寂しさを掻き立てるものだ。