八並孝徳という福岡県宗像市出身の男が、女子小学生を路上で背後から抱きつき、裸にし、強姦に及んだ事件が、本日、yahooのトップニュースであった。
私は、また起きたことにひどく憂鬱になった。女子小学生の傷がどんなものであるのか、男目線であるため、理解はできてはいない。
ただ、煩悩のおもむくままに起きた事件であるということはいえると思う。以前、富山市の自宅で、大門広治という会社経営者が、娘の里帆を計8回も強姦する事件が起きて、いまだに係争中であることを記事に書いたことがある。
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男性は女性になれないから、肉体を凌辱することが、どんな危機的なことであるのかは、本当のことよくわかっていない旨を書いたのである。
今回の事件を起こす前に、10月には、同じく路上で、成人している女性を押し倒して逃した事件を起こしている。もうすべてが嫌になって、女性を傷つけて死のうと考えたそうだ。
被告は、ボランティアをライフワークとしていたとあって、コミュニティーに対して、なんとか適応しようという努力もしていたんだろうけど、コミュニケーションに難があって、小さい子の前でもオドオドしていたとあった。
それを読むと、自分の心の弱さを垣間見るようで、なんとも言えない気持ちになる。彼のインスタグラムにも、人が全く映っていないし、風景の美しさばかりを撮っている。この孤独感は、嫌でも、自分に迫ってくるものがある。まったく、無縁には思えないのだ。
裸にして、四つん這いにして、強姦し、精液を飲ませることで、傷を負わせることに成功した彼が考える境地が、胸糞悪いけれど、他に選択する道はなかったのかと言いたくなる。
6年6ヶ月で出所できるというのは、一体、どういうことだろう。もう就職先もないのに、また、悪事をするだろうと予見される人を、平気で社会に出すというのは、どういうフィロソフィーがあるからなのか知らない。犯罪者にも人権があるというのか。
でも、一歩間違えたら、誰かが、八並孝徳になっていたのかもしれない。徳について考えてきた人生が、すべて絶たれた時に、自殺を想い、誰かを傷つけたいという、誰もが持つ、最も低級な精神にとらわれてしまった。
この世の中が救われるには、どうあるべきなのか? 社会は、どう彼と向き合い、彼は、今後、どうするべきなのか? 反省なんていくらしたって、もう、誰も、信頼してくれないよ。捨てる神あれば、捨てる神ありの世界で、そもそも法を犯さないだけの人なら、犯罪者なんてなっていないもの。
私には、誰にも言えない罪がある。すべて償ってくれる自由な日を訪れることを、いつも夢みているけど、そんな日は、永遠にこないだろう。
元々、人間は、獣性にとらわれやすく、本来、普通とされる日常生活が維持されていることほど、大事業なのだろう。普段、なにげなく挨拶をし、1日働いて、笑顔で退社し、晩飯を食べながら、プロ野球を観て楽しむ。これだけを繰り返すだけでも、本来は、凄いことなのだろう。生きて呼吸をしていること以外に、本来、探すべき意味も、ニルバーナ―の相対性のうちに消えていくに違いないのだろう。被告は暗いというけど、その源は、明るさにあったのだろうし、私は、明るさの中に暗さを、暗さの中に明るさを見て、明るさは滅びの姿なのかもしれないとつぶやきながら、明日を夢みている。