イチョウ並木は、冬場には枯れ枝が寂しげに見えるが、初夏の今日では、緑の葉が日の光を浴びて、生命の躍動を感じさせる。自然のサイクルにあらかじめプログラムされているのだろう。しかし、自力で何かできるかと問われると、運命に左右されながらも努力しているうちに、時代や環境と自分の力が偶然にフィットして花が咲くような気分である。意思とは宿命の残りかすに過ぎないのか?
それにしても眩しいほど美しい。私は青と緑が昔から好きで、青空と緑の葉のコントラストに目を奪われた。向日性の強い性格であったのだろう。自宅へ向かう階段の割れ目からタンポポの花が顔を出している。生命力の神秘に触れるたび、自分が存在する理由を考えることがある。偶然の産物なのか。運命論と重なるが、同じく花を咲かせても、どこで咲くかが問題である。山奥か、誰もが集う場所か、それも宿命の一部だ。
帰宅してから、久しぶりに小野六花のデビュー作のAVを動画で閲覧する。AKBのアイドル顔で綺麗だと思って見始めると、以前見たことがあるものだった。なぜ信頼を損なう行為をして、男性の性欲に奉仕するのか? お金のためと言うが、これはデジタルタトゥーではないか。何かしらの事情があるのは間違いないが、容姿に恵まれながらも、生い立ちが内面に影響を及ぼしているのだろう。これも宿命の問題に結びつく。
親からの虐待、いじめ、不登校、ドラッグ、少年院というダークなコースを歩んでいても、男性ならマルコムXのように筋金入りの人物になる例がある。しかし、女性の場合は数が激減する。心と身体の相関関係が男性よりも強いのだろうか。AVは最後に女子高生の格好でプレイする動画になる。この制服を征服するコンセプトは社会的に悪であるはずなのに、18禁として公に販売されている。性欲の恐ろしさを見せつけられるが、三島由紀夫の『金閣寺』を思い出す。「光を凝視しているときにこそ、人間の狂暴さは昂じてくるのだということを。やさしい光に対する憎悪が、いつ、どんな形で感情になるかはわからない。光を凝視すると、その光を壊したい衝動に駆られるのだ。」彼が言ったように、「われわれが突如として残虐になるのは、うららかな春の午後、木漏れ日を眺めているような瞬間だ。」