7月6日(木)19時~20時50分、吉祥寺シアターで、韓国現代戯曲『黄色い封筒』を観てきた。シナリオセンターの人は2000円安く3100円で観られる。観客は超満員であった。
韓国の労働条件の悪さから組合活動に身を投じている人達の話で、自身の生活から、会社の要求に妥協して、過酷の労働に従事している者と、組合員との関係性も描かれていて、その心理の綾というものは、面白いところがあった。しかし、テーマが、日本でいう小林多喜二の『蟹工船』や『セメント樽の手紙』の労働条件に近い内容で、いまいち感情移入できない。芝居のクライマックスで、組合活動に消極的で浮いた存在だった男が、主人公と共に、労働条件改善を訴えて、高空籠城するというのには、自在錯誤の印象しか抱けなかったのは、私だけではあるまい。高空籠城とは、煙突などの誰もが目にする高いところに登り、旗を掲げ、労働条件の改善を訴える労組の手段というのだが、それほどまでに、韓国の社会の下層において、社会保障が行き渡らないほど、追い込まれているのかと思えるほどだ。2017年の韓国国内の芝居ランキングで4位というのだから、これを観て心打たれる韓国人が多いというのは驚きだ。
レイラ・スリマニ『ヌヌ完璧なベビーシッター』がフランスの現代文学で話題の作品だからと読んだ時には、東京郊外のスーパーに勤める私がいつも目にする、保育園に子供を預けて、働きにくる女性達の課題と全く同じだろうと考えさせられる内容であったし、フランスのパリの郊外における課題と、東京郊外における課題とは、似通ったものになっているのだろう。私の求めている芸術は、私が現実に向き合おうとする上で、参考になるかどうかであると最近わかってきた。やはり、私にとっての関心は今にあって、この現実にあるんだと考えている。哲学では実存というのかな?