いよいよ明日から仕事を始めることになった。骨折をしてから、骨が完全にかたまるまで、2ヶ月はかかるというから、本格的な始動は、8月30日以降ということになる。この1ヶ月は、重たいものも持てず、左手で身体を支えるなどしてはいけないということだ。果たして仕事になるのかと考えると不安で居たたまれない。
産業医との面接では、8月16日からにすればいいのでは? と聞かれたが、今の労働力を説明して、所属先の店長・チーフが良しとすれば、せざるをえない立場ではあるのだ。私とて、今の状況で商売戦線に復帰すれば、みじめで情けない思いをするのは知れている。
たとえば、産業医が耳の病気にかかり、聴力が回復するまで1ヶ月かかるとして、医院のオーナーが、筆談でもいいから出てきてくれ、あらかじめ患者には許可をとっているからと言われれば、出なければいけないというのに似ている。
私は今回の怪我で、仕事は嫌いではないが、職業意識が希薄であることがわかった。産業医との面接を近くで聞いていた保健師の人を例にとれば、心身にアクシデントが起こり、仕事から遠ざかっている人を復職までサポートすることに、生き甲斐をもっているということであれば、周囲の評価というより、仕事の内容そのものに価値をもっているといえるだろう。
スーパーの現場で働く人は、そういう人は少ない。生活の資を得るのに困らない給料を貰えて、商品を売るのが楽しくて、周囲や会社から認められれば満足といった輩が多い。それは、セルフサービスというのが大きい。日曜日鮮魚の商品を140万円ぐらい販売しても、思い浮かぶお客様の顔が、10人いればいいほうではないか。消費者の顔が不鮮明な寂しさを覚えるのである。
今、私は、これまで6年間積み重ねてきた信頼や評価の半分以上を崩してしまったところがある。職場復帰において、モチベーションも半分になってしまったと言っても過言ではない。しかし、6年間、色々な店で働く人達のことを思うと、言葉は悪いけれど不良社員が、1店舗に4人ぐらいいる。人事コストの垂れ流しになっている。
私は今、向き合っている壁、そこで進もうとする力の蓄積は、今後、会社にとって有益なものになる可能性を秘めていると信じる他ない。
店に立ち寄った帰り、京王線で人身事故が起きていた。運転再開まで、100分かかるそうだ。
私が鬱々とした不安の中で、職場を訪れるために乗っていた電車の後に、1人の女性が線路に身を投げたのだ。
即死であるから、苦しくないのだろうか?
楽に死にたいと誰もが考えたことがあるだろう?
安部公房が自殺者のことについて、一つの答えを出している。以下、『都市について』の抜粋です。
「ぼくの考えでは、都市が悪夢のイメージしか結びえない理由は、要するにぼくらが、まだ都市を十分に表現しつくす、都市の言葉を持っていないせいだと思う。ぼくらの血の中には、古い共同体の言葉が、すぐにも沸騰しかねない圧力をひめて、まだ息づいている。都市を語るときにも、ついその共同体的思考を借用してしまうことになる。すでに無力になった共同体の言葉で、共同体の対立物である都市を語ろうとするのだから、そのイメージが悪夢めいてくるのも、しごく当然のことなのだ。
とくにおびえを感じさせるのは、人間関係の変化かもしれない。都市(産業社会)は、自己の成長の能率化のために、共同体的人間関係をすっかり再編成してしまった。比喩的に言えば、隣人の組織から、他者の組織へと、編成替えをしてしまったのである。おかげで市民は、共同体的な価値の固定から解放され、おのれの価値を拡大していく、自由競争の可能性を与えられることになった。可能性にすぎないとしても、ともかく可能性は与えられたのだ。そして、その自由に対t応するものとして、勝者には社会的地位という、栄冠が約束されはしたものの、それは同時に、幸運な例外を除く大多数の頭上に、苦い荊棘の冠を自覚させる結果にもなったわけである。
たぶん、そのせいだろう、自殺者を敗者の代表とみなし、同情よりも非難の目をむける点においては、どんな体制のモラルも、奇妙なくらいに通っている。敗者の存在は、体制の如何を問わず、社会にとっての恥部だからだろう。だが、敗者と自殺者を同一視すること自体、共同体的な思考に馴れた、偏見の現われにすぎないのではあるまいか。共同体にとって、自殺はつねに許すべからざる批判であり、挑発である。社会が自殺者に対して、つい保守的になってしまうのも、考えてみれば無理からぬことなのだ。
だが、隣人を受付けない、他者の組織の孤独に耐えられなくなったとき……無限の競争地獄に耐えられなくなったとき……はたして人は、まっすぐ死におもむくものだろうか。そんなことはない。人々はむしろ、偽の共同体にしがみつこうとする。閉鎖的ではあったが、気を許すことが出来た共同体へのノスタルジアから、内容のない共同体のシンボルにだけでも、しがみつこうとする。家庭、宗教、国家、その他もろもろの紋章の旗のもとに……。あげくのはてには、異端征伐という、まことに充実した生の目標さえ手に入れてしまうのだ。おかげで現代の都市は、その冷酷な本質にもかかわらず、現象的にはむしろ、疑似共同体のスーパー・マーケットの観さえ呈している。
そう、自殺者はけっして単なる敗者ではないのである。現にしばしば、世間的には栄光の冠を与えられたと見える者さえ、自殺への道を選んでいる。おそらく彼等の失望は、一見都市の陽気を支えているように見える、雑多な疑似共同体の虚妄を見抜いてしまったせいにちがいない。その意味では、健康な生活人などよりも、自殺志願者のほうが、はるかに生の真実に近づいていたとも言えるのだ。と言うのも、都市が勝者に成功者の栄冠を用意しているという、そのこと自体、じつは共同体的発想の単純な裏返しにしかすぎず、けっして都市自身の言葉で語られた、都市の素顔などではないのだから。
だからぼくは、書きたかったのだ。なんとか、都市の言葉を見つけ出し、都市の孤独を病気だと錯覚している、その錯覚に挑戦してみたい。いま必要なのは、けっして都市からの解放などではなく、まさに都市への解放であるはずだ。自殺者や、失踪者たちは、たぶんその挑戦に敗れた先駆者だったのだろう。」
京王線に飛び込んだ無名の女性に哀悼の意を捧ぐ。