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三島由紀夫『月澹荘綺譚』の地を訪ねて。

 三島由紀夫が昭和39年から45年まで、毎夏訪れた下田のお菓子屋さん、日新堂に入ってみた。

店内は、三島由紀夫の写真が沢山貼ってあった。三島由紀夫が日本一のマドレーヌと絶賛した味ということだ。奥から老婦人が出てきた。「三島由紀夫の来た夏」の著者横山郁代さんかと思い、著者の方ですか? と聞くと、その母ですということだ。三島由紀夫と毎夏、店頭で相手をしていた母が存命だとは考えていなかった。
 娘さんの本を読んできたこと、娘がホテルに行きたがっても、母が頑として「迷惑がかかる」と請け合わなかったのは勿体ないこと等を興奮して話しかけた。
 三島は気さくで良く話す愉快な方だったということだ。下田の街を夏になるとよく歩いていた。祭りのでは、喜んで現地の人達と一緒に神輿を担いでいて、海が大好きでねぇと笑顔で話していた。
「先ほど、三島と親交のあった熱海のボンネットというCAFEの主人と話してきたけど、彼のいうところだと、あまり話をする人ではなかったそうなんですよ。きっと、ここがお気に入りで心を許していたのでしょうね」
 と私が言うと、母は興味深くうなずいている。
 マドレーヌの3500円の箱を2箱調子にのって注文した。
 さすがに腹を切った時には驚いたでしょう? と聞いてみた。菓子箱を包装しながら、一月前ぐらいに、話したばかりで、来年の夏は来れないからということだったけど、まさかあんなことになるとは思いもしないからと、下を向いた。実際に親交のあった人達は、あのことを、あまり思い出したくないことなのだろう。それから母親は黙りがちになった。
「下田で1泊してから、明日は西伊豆の方に行こうと考えています」
「西の方にも作品があるんですかね?」
「獣の戯れ、苺、剣があります。娘さんも作品を読み込んでいて、『苺』、『剣』については、文庫本では発売されていないので、娘さんの書いた本を読まなければ、見過ごしていたと思うんです」
「三島さんも喜ぶと思いますよ。また、いらっしゃいね」
 私は何度か、ありがとうございましたとお辞儀して、店を後にした。
 下田公園の東にある磯料理の店に行く。


ここも三島由紀夫だけでなく、長嶋茂雄も訪れた店で、両者の色紙が額に入れて飾られている。下田公園の先に小さな無人の小島である赤根島がある。「月澹荘綺譚」の舞台となった場所だ。

 下田海中水族館を左手に進んでいく。水族館のトレーナーの女性に赤根島の場所を聞くと、先にある小さな林を指差して、
「あの先は海しかないですよ」
 と不審な顔をした。
 私が道らしき場所を探りながら歩いていくと、左が崖になっていて危なかった。踏み外したら転落するではないかと怖くなる。
 しかし、1967年に書いた作品の描写と、2020年に見た光景とは、それほど変わっていない。



↑夏茱萸ではないか?

「私は去年の夏、伊豆半島南端の下田に滞在中、城山の岬の鼻をめぐる遊歩路がホテルから程よい道のりなので、しばしば散歩をした。滞在の第一日には岬の西側をとおり、強い西日を浴びながら、角を曲る毎に眺めを一変させる小さな入江入江を愉しんで歩いた。
 その入江が、岬の鼻へ近づくに従って、次第に荒々しい荒磯になる。長大な岩が蝕まれ、大きな破壊のあとのように乱雑に折れ重なっている。岬の突端の茜島へ渡る茜橋のところまで来ると、そこではじめて強い東風に当った。
 私は茜島へ渡った。そして烈しい日にますます背をやかれた。
 茜島は人の住まぬ荒れた小島で、丈の高い松は乱雑に交叉し、斜陽はとなりの松の枝影をこちらの幹へありありと映していた。
 坂をのぼる。坂の頂きに、稲妻形の枝をさし出した大松が2本、左右に門のように立って、その彼方に青空が再び拓ける。その先には岩壁を穿った洞門がある。これをくぐると道は絶えて、岩場の上をかすかに足がかりが伝わり、海燕がさえずり飛ぶ島の南端へ出た。そこは直ちに太平洋に面している。
 私は岩にもたれて、そこかしこを眺め渡した。荒磯は夕影に包まれているのに、海は夢のようにかがやいていた。
 見上げると、私の背後には茜島の南端の断崖がそそり立ち、その頂きには松が生い、木々が繁っている。岩のあらわな集積が、やがて頂きに近いあたりで、はじめて草の芽生えをゆるして、そこから上方へ徐々に稠密に緑に犯され、繁みの下かげには黄いろい小花や、灌木がつけた点々とした赤い実も見えている。夏茱萸ではないかと私は思った。
 その頂きあたりのいかにも常凡な草木のすがたと、裾から半ばまでの赤むけになった肌のような岩のおもてとが、あんまり対照がきわやかなので、そのどちらかが仮装であって、一方が一方に化けかけて、化け損ねた姿をそのままさらしているかのようである。
 私は次に目を足下へ移した。そこには赤い粗い岩の間に小川ほどの水路があり、私の居場所と突端の荒磯とを隔てている。それが右も左も低い洞穴で海に通じているので、その水路は波の去来によってたえず動揺している。両側の粗い岩肌からいちめんに滝を引きながら、水が俄かに深く凹んでゆくかと思えば、たちまちそれが膨らみ昇って、波立ち、泡立ち、白い泡沫の斑で水路をいっぱいに充たす。その大幅な変化が、不安で、怖ろしげに見える。水があたかも、呼吸をして伸び上りふくれ上る異様な生き物のように見えるのだ。それがどこまでふくれ上るかわからないほどになると、再び急激にしぼんで、水底をあらわすまでに干るのである。
 見るうちに私は、何とも知れぬ不安な情緒にかられてきた。水は黒くふくらみ、赤い粗岩のあいだに、烈しい不気味な動揺をやめなかった。目を放って沖を見る。すると、その輝かしさが私の不安を救った。
 海風はさわやかに私の頬を打ち、沖をゆく貨物船は左舷に西日をうけてまばゆい白のかがやきを見せ、沖の夏雲の形は崩れておぼろげながら、一面にほのかな黄薔薇の色に染っていた。」

 今と同じ情景そのものである。天国にいる三島由紀夫とコミュニケーションがとれたような興奮があった。日新堂菓子店の婦人と話した後でもあるから、今、近くに三島がいるような気がして嬉しかった。
wikipediaより↓
「去年の夏、「私」は伊豆半島南端の下田に滞在中、城山の岬をめぐり、かつて明治の元勲・大澤照久侯爵が建てた「月澹荘」という名の別荘にまつわる40年前の話を一人の老人から聞いた。その老人・勝造は、漁師の父が別荘番をしていた関係で、大澤照久侯爵の嫡男・照茂と幼友達であった。照茂は侯爵が亡くなると家督を継ぎ、大正13年1924年)に20歳で結婚した。その夏、新婚夫婦は月澹荘を訪れたが、翌年の秋に別荘は火事で焼失した。無人の別荘の出火の原因は不明だった。それを機に夫人は別荘の土地を下田へ寄附する旨の手紙を勝造に送った。その手紙の送り主が主人の照茂でなかったのは、その年すでに照茂はこの世にいなかったからだった。
新婚の照茂夫人は、初めて月澹荘を訪れたとき、庭で誰かの視線を常に感じていた。照茂が死んだ翌年、夫人は一人で月澹荘を訪れ、夫がなぜあんなふうに死んだのか、何か秘密の事情を隠しているらしい勝造に問うた。勝造は2年前の出来事を語りだした。
それは照茂が結婚する前年、照茂が19歳、勝造が18歳の夏だった。城山を散策中、二人は白痴の娘・君江が赤いグミの実を摘んでいるのを見かけた。照茂は君江の腰をじっと見つめ出し、勝造に君江を強姦するように命令した。殿様の言うことに忠実で従うことしかできなかった勝造は、しゃにむに目的を遂げようと君江を襲った。その間、照茂はじっと冷酷な感情のない澄んだ目で、泣いて咽ぶ君江の顔を至近距離で水棲動物の生態を観察するかのように見ていた。君江はその視線から逃れようと必死だった。勝造の秘密の告白を聞いた夫人は、なぜ君江が勝造でなく照茂を憎んだのか納得した。そして結婚以来一度も夫婦の契りがなかったこと、夫はただじっとすみずみまで熱心に見るだけだったことを勝造に告げた。
照茂は夫人と月澹荘を訪れた夏、岬近くの茜島という小島へスケッチに行ったまま、崖で死んでいたのだった。頭を砕かれ海へずり落ちそうになっていた。勝造はそれを一目見て、君江が殺したのだとすぐ解った。照茂の両眼はえぐられ、そのうつろには夏グミの実がきっしり詰め込んであった。」

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