京王線千歳烏山駅のホームにある指輪の広告写真を蒋麗は眺めていた。
「いいな、欲しいな」
と彼女は手を翳した。隣にいる山田を一顧だにせず、にやにやしている。
「客に買ってもらえばいいじゃん」
と山田は慣れ親しんだ人をくすぐるような笑みを浮かべた。
「何でそんなことを言うの」
と蒋麗は真剣になった。
「ジーナさんは、誕生日に高級な香水を買ってもらったらしいじゃん。誕生日には、こんな銀色に光る指輪ぐらい買ってくれるんじゃないの」と山田が身体を前に出して、向かいのホームにある大判の広告を注意深く眺めた。「三十六万円と書いてあるな。とてもじゃないけど、こんなものを買ってあげることはできないよ」
千歳烏山駅のホームは、外とは柵一つの隔たりしかないので、駅前商店街の中に駅があるような感じがする。山田は高校生の頃、帰りに野球部の仲間とこの柵を乗り越えて商店街にあるステーキハウスに食事をしに行ったことを思い出した。
「デジカメを買ってくれればいい」
「うん」
と山田はしんみりとした。
――三年前の一月三日のことだった。東京の街に珍しく雪が降ったその日の午前中に、山田はみんなが見ている前で、上司に殴られたのだ。その夜、小説創作学校で出会って仲良くなった友人である大田を誘い新宿の歌舞伎町に出た。『歌舞伎町一番街』の赤いネオンボードの下を通ると、風俗店の看板が目立つ。黒服を着た男性が、店の前に紳士的に立っている。各店の中は、階段になっていたり、長い廊下の奥に重厚な扉があったりする。山田が風俗店の看板を注意深く見ながら進んでいると、大田は、スケベだなと言った。大田さんは、こういう場所に慣れているから感じないんでしょと、看板に書いてある文字を見つめながら答えた。五十メートルほどある通りを歩いていると、焼肉料理店で網皿にのせて牛肉を焼いた後のにおいがたびたび鼻先をかすめた。右前に、レンガ造りの煙突から、煙がひっきりなしに出ている。大田に今度は尋ねた。
「あの店は何をしているの?」
「セックスだよ」大田は大げさに笑ってから、「君がよく言ったじゃないか。新宿は欲望の街だってね」
それから、彼らはコマ劇場を右手にして真直ぐ突き進むと、コリアン街に出た。自動販売機の商品名やスーパーマーケットの看板、飲食店のメニューすべてがハングル文字で書かれていた。細い砂利道が前に見えた。薄汚い宿屋の前に、女性が幾人も立っている。片言の日本語でお兄さんどうと彼らの袖を引っ張る。山田は何度も払いのけながら前を目指した。暗くて女性の顔もよく見えないので、山田は歌舞伎町の湖で溺れている感じがした。
職安通りに出て、右にずっといくと、明治通りに突き当たる。また右にいくと、靖国通りがある。靖国通りにある花園神社の隣に、七階建てのカラオケボックス『歌広場』がある。そこで蒋(しょう)麗(れい)に出会った。
カラオケボックスは、五、六人が十分くつろげるぐらいの広さで、マイクが綺麗な白布の上に置かれていた。ここで寝ることに決めていた彼らは、飲食物を内線で注文した。注文するたびに、若い女性の店員が届けにきた。女性の話し方がぎこちなかった。すぐに山田は、どこから来たのと聞いてみると、間を置いて中国と笑ってみせた。高い鼻と冷めた目をしているのに不釣合いなほどはっきりとえくぼが頬に浮き出る。上品な暮らしをしている人に思えた。
注文するごとに、その女性がカレーライスやチキンナゲット、ラーメンやジュースなどを持ってくる。彼女の吐く息がせわしい。大田は大きな声で笑い、休んでいけよと投げやりな声をかけた。ボックス内のソファーに寝転がっていた山田は、窓にプリントされてある雪の結晶が、彼女の吐く息ごとに塗り替えられていくように見えた。
「携帯を持っている? 番号を教えて」
と山田は笑ってみせた。彼女はレシートの裏に、メールアドレスを忙しそうに書き始めた。ペンについているキティーちゃんの飾りが愉快にゆれる。Lily fish@―― name 蒋麗 と書かれた紙を渡された。スーパーの魚屋に勤めている彼は、アドレスにfishが入っていることに興味を持った。声を懸けてよかったと思った。蒋麗がドアを開けて出て行く時に、山田のことを顧みた。大田がボックス内の明かりをつけたので、蒋麗の顔がはっきりと照らされる。蒋麗は楽しそうに笑っていた。歌広のオレンジ色のジャンパーを着て、チャックの開いた胸元からは、純白なポロシャツが見えていた。ドアが閉まると、シャンプーの匂いが鼻先を掠めた。ガラス窓越しに、彼女が忙しそうに、早歩きで去っていくのが見えた。
向かいのホームに電車が入ってきた。線路が蜃気楼で二重に見える。七月中旬の暑さのためか、線路に直射日光が反射し、二人の目を射た。電車は岩を転がすような音を立てて動き始めた。西日が誰もいなくなった彼らの前のホームを照らしている。
「暑いわね。もうすぐ来るのかしら」
「蒋麗さんがもっと早く来てくれれば、すぐ電車に乗れたのに」
「しょうがないでしょ。昨日は五時まで残業があったから」
「えっ、午後七時から午前二時までが仕事でしょ。残業代はちゃんとつくの」
「指名があればつくわよ」
と蒋麗は首を傾げて、下を向いた。何かを忘れようとしている風に見えたので、山田は話すのをやめた。柵越しに子供達が大声ではしゃぎながら通り過ぎた。小さい頃、近くのデパートの屋上には、線路が周囲三十メートルぐらいひかれていた。百円を投入すると乗り物がゆっくり一周したことを山田は思い出した。彼は財布を取り出し切符を眺めた。
「ディズニーランドに行ってくれるはずじゃなかったの」
「行きたいけど、昨日は五時まで仕事でしょ。その前は本当に生理でこれなかったの。お腹が痛くて……今度にしよう。三年前はあなたが来なかったのよ」
「そうだったね。あの頃は蒋麗さんが苦学しているなんて知らなくて」
「くがく?」
と彼女は嫌そうに顔を背けた。
「苦労して勉強しているって言うこと。お金を稼ぎながら大学に通っているっていうこと。会った当時は金持ちの家のお嬢さんだと思っていたんだ。だから、府中の国際通りでホステスをしているなんて思わなかった」
「何で? 私が金持ち」
と機嫌顔になった。すぐに真顔になって、
「金持ちならバイトなんてしないよ。そういえば、確かあなたとは歌広で出会ったんだよね。その後、歌広で遊んだと思ったな」
「そうだよ」
と山田がそっけなく言うと、蒋麗は眉間に皺を寄せて、何度かうなずいてみせた。
「デジカメを買ったらさポイントがつくのね。それでカバーケースと透明なシートを買っていいでしょ」
――蒋麗と山田が初めてデートしたのは、出会って間もなくであった。約束の十分前に、言われた通りの『歌舞伎町一番街』のネオンボードの場所で待っていると、ポケットにある携帯電話が振動した。電話に出ると、
「今、どこにいるの」
と語尾にアクセントがある、明るい大きな声が聞こえた。前を見ると、蒋麗が遠くから手を振っている。高層ビルの窓が、深夜にもかかわらず明るい。立ち並ぶビルディングを背に、彼に笑みを見せながら駆けてきた。道行く人の活気も衰えず、歩道には黒服を着たホストの客引きや、ほろ酔い加減にふざけている大学生のような男女達、路上に映画の海賊版DVDを堂々と広げて販売している禿髪で頬がこけている中年男性、アメリカ系の若い男性二人と日本人の三十歳前ぐらいの女性が、自動販売機の前で釣りがでてこないことで何度も笑い転げている。
蒋麗は山田の腕に抱きつくぐらい傍にきて、せかすように前へ行こうとする。
「年齢はいくつなの」
と彼女は、彼の肩に手を軽く置いて微笑んだ。
「二十三歳」
と答えた。蒋麗は、えっ年下と嫌そうな顔をした。しばらく黙って前へ歩く。
「あれ、歌広だよ」
蒋麗は、前を指差した。その方向を目でたどると、歌広の看板があった。ブロック文字で、UTAHIROBAと書かれている。色合は一文字ずつ違う。それが、看板にばらばらに描かれている様は、新聞の折り込みチラシの文字を適当に切り抜いて貼り付けたのに似ている。
八階のボタンを押し、エレベーターが急上昇し、しばらくしてドアが開くと、歌広の店内であった。カウンターの前には、円形の広々した空間に、ソファーが中心に置かれている。周囲には、所々に座席が円く、背もたれが添える程度についている木製の椅子がある。正面奥には、ドリンクバーがある。午後十時をまわっているにもかかわらず客の出入りが多い。
彼と蒋麗は、ソファーに並んで腰掛けた。蒋麗は前に何度も上体を倒しながら、笑いを誘うように話しかけてきた。そのたびに、オーバーコートの首元から凧・鳥・雲の模様をした茶地の衣服が見えた。
暗いボックス内に、蒋麗は先に入った。扉口で彼は、ただ立っていた。彼女が明かりをつけると、手招きをした。山田は扉内に歩を進めた。蒋麗がソファーに座ってしんみりすると、彼も真似して隣にしんみり座った。遠くからポピュラーミュージックが、がらがら声に乗って響いてくる。彼はそのたびに、この歌は知っている? とボックス内に来てから気が沈みがちになった彼女に問いただした。すべての返事は知らないということだった。学校のことを聞くと、蒋麗の語気は強くなった。
「ほらっ、外国人だからみんな話してみたいって、興味本位で寄ってくるでしょ」
と彼女はテーブルの上に上半身をうつぶせになって、首を横に振った。
「彼氏はいるの」
蒋麗は顔を素早く上げて、涙目になった。
「上海にいる彼氏と別れてきたわ。一緒にディズニーランドに行きたいと言ってくれたけど、それっきりよ。遠く離れたら会うことはできないでしょ」
「ドラマティックなだけ慰めはあるんじゃない。うん、そう言えば、魯迅の小説なんかよく読んだけれど、そういう描写にはうといよね。中国人の生真面目さに通じるのかな。春夏秋冬、一つの季節に一つのドラマなんてね」
山田はよくわからないことを言った。
蒋麗は、目を細めて聞いていたけれど、何度も首を振った。わからないという合図に見えた。
「日本人だけど日本語下手だから気にしないで」
と山田は言った。彼女はありがとうと笑った。
沈黙が続くので、彼はマイクを手にとって、ラブソングを歌った。
「知らない人の前で歌うこと、私できない」
と蒋麗は顔を赤らめた。次は彼女が、テレサテンの『空港』を歌った。歌い終わってマイクをテーブルに置くと、彼の顔をつらつら見た。するとすぐに立ち上がり、英語の発音で「トイレ」と部屋を出ていった。
彼は歌を歌って待っていた。彼女はすぐに帰ってきて、
「あらっ、歌を歌っているの」
と言った。その口調に軽蔑的なニュアンスが含まれている。彼女にマイクを差し出すと、手と顔を振った。蒋麗はメニュー表をつらつら眺めて、お酒を飲もうかなと口にするので、彼は内線の受話器を取りに立ち上がった。
静かになると、またせわしなくトイレに行った。ソファーに置いてある彼女の携帯電話のストラップには、キティーちゃんがいくつもついていた。画面に表示された時刻は、十一時半であった。山田は朝五時の新宿駅始発の電車で、職場に向かわなければならないことを憂慮した。殴りつけた上司の顔が頭に浮かんだ。
蒋麗が戻ってくると、投げやりな調子でテーブルの上にあるチラシをばさばさめくり、彼の顔を横目でのぞいた。
「眠いの?」
つまらなそうに聞く。
「毎日、十時までには寝ているから……」
「寝ていいよ」
彼は長いソファーに寝転がると、彼女は視線を落として、懐から取り出した煙草を吸い始めた。
「煙草はよく吸うの」
と寝ぼけると、
「ついこの間からね」
と煙を強く吐いた。
――山田は蒋麗と一緒に買い物をしている夢をみた。彼女はいつも前を歩いては、高層ビルに掲げられたネオンボードを指さして、彼に微笑みかける。そこには、若い女性の二人組が、贅沢そうな身なりをした姿で、前からくる何かを楽しそうに迎えている写真があった。女性の身につけているバッグやネックレス、ベルトが目立つ写真であるから、衣装関係の広告であろうと思った。彼は早く目的とする場所につきたくて、気が急いていた。蒋麗の手をとって早くそこに行きたいのだ。蒋麗がいないことに気付いた。辺りを見回すと、彼女は店のショーウィンドウに目を止めてじっとしている。山田はあきらめて石段に腰掛けて蒋麗を凝視した。彼女は商品に目が張り付いているかのように、まばたきを一つもしない。ほつれた黒髪は風が吹いても動かない。周りの人たちは忙しそうに動いているのに、蒋麗だけは、じっとして商品に目を凝らし動こうとしないのだ。何度も呼びかけているのに、返事もしないと気が急いた。そして、音が鳴っているのに気が付いた。
携帯電話の目覚まし時計をセットしておいたことを思い出した。起きて眠そうな眼で彼女を見た。蒋麗は煙草の煙を口から吐いて大笑いする。
「目覚ましを仕掛けておいたんだ」
と彼女は、彼を指差して、また笑った。
線路の蜃気楼を指差して、
「線路が二重になっているように見えるでしょ。このことを蜃気楼って言うんだ」
「しんきろう?」
と蒋麗は気もなく、指輪の広告を注視している。鼻筋や口元は人形のように白く、まばたきもしない。目元には昨夜の疲れか皺が寄り、息を吸うごとに薄く開いた唇が、頬に波動し、微笑んでいるかのようだ。箸が倒れたのを見て笑うような無邪気な笑顔ではなく、雪に足を滑らせて転んだ人をほくそ笑むような陰気さがあった。
「それにしても暑いわ」
「朝は雨が降っていたから、蒸し蒸しするね。看板の角や線路や手すりの金具に光が反射するから、目もチカチカするし、どうする、奥のベンチで休もうか」
「お茶を飲みたい」
「やっぱりウーロン茶」
「福建省でとれたものでしょ」
と語気が不自然に強くなった。中国語のように「福建省」と言うかと思えば、英語の疑問文の末尾のように「でしょ」と音を高くした。またそのニュアンスに差別的な意味が感じられた。
「そういえば、パブのママは福建省出身なんだっけ」
「あのパブで働いている人は、私とジーナ以外、福建省出身よ。金曜日来るだけの女の子は蘇州出身なの。自分で聞けばいいじゃない」
「でも毎日カラオケやお酒を飲んでいるんだから、楽しい仕事でしょ」
「楽しいけど、ずっとしていると疲れるよ」
「歌広とどっちが」
蒋麗は口を閉じて下を向いた。目を細めて首を振った。寝ぼけたような顔をすると、
「歌広は楽しかった。店長がパチンコが好きで、勝つと焼肉をおごってくれたりしてね。夜のカラオケの仕事だから、吐いて倒れているお客さんとか、酔っ払って絡んでくる客がいたりして、嫌なこともあったけど、仕事を終えて友達と近くのレストランで食べたりすると、嫌なこと全部忘れたわよ」
――山田は東京の三多摩地区を中心とした魚屋チェーンに勤めていた。そのパート社員としてフィリピン人のジーナという女性がいた。大人しく真面目で、普通の人よりも刺身の造りを覚えるのが早かった。とても仕事を楽しそうにするので、生臭い職場に嫌気が差している者が多々いる中で、ある神々しさがあった。主任が彼女の切った刺身を褒めると、笑みで口が大きく開きそうになるのを手で押さえた。ジーナの振舞いからは、ホステスにある媚態や化粧の濃さ、ネオン暮らしの蝶々といった雰囲気はさらさらない。山田は仕事を終えてから、夜に職場の同僚である田中と、ジーナの働いているパブへ行ってみることにした。
八時から店は始まると聞かされていたが、彼らは七時半に行った。店の看板には、チャイニーズパブ環と書かれている。ドアを開けると、中には日本語がまるで通じない中国人らしき女性がテーブルを拭いている。駄目だ、いないよと山田は振り返ると、慌しく中に入ろうとする同い年の二十五歳ぐらいの女性がいた。目が合うと、山田とその女性は立ち止まった。しばらく二人は顔を見合わせている。
「どこかで見たような」
彼女が言葉を発する際に、山田は気付いた。蒋麗である。蒋麗は上海育ちのお嬢さんであると思い込んでいたので、気付くのが遅かったのだろう。金持ちのお嬢さんがホステスなどするわけないという思いが山田にはあった。
田中は後ろから背中を指でつついて、誰だと興味本位な顔をしている。
中に入って話すことになった。近くの椅子に彼女はすぐ腰掛けると、彼らに透明なテーブルを挟んだ前の席に座るよう手で促した。蒋麗はすぐ立ち上がって、カウンターにいる女性に中国語で話しかけながら近づいた。しばらくして、チョコナッツのお菓子と水と手拭を持ってきた。
「確か歌広で遊んだことがあるような」
とあまりにも正確な日本語の発音で彼に目を合わせてきた。
「そうだよ」と答えながら、その声は少し震えていた。「先輩と一緒に歌広へ遊びに行って、そのとき、ナンパしたんだよ」
と山田は一気に言った。蒋麗は日本語でぶつぶつひとり言を言って、瞬きもせずに前を向いている。すぐに顔を上げると、山田を刹那食い入るように見つめた。「あぁ」と口が怒りを堪えるように開いた。
そのとき、ドアが開く鈴の音が響いた。ジーナが黒いミニスカートを穿いて、胸元を大きく開けた黒いドレスを着て、ゆっくりと入ってきた。
ジーナは山田だけでなく、田中が来ていることにさも驚いて、忙しなくタオルを持ってきたり、ワインをカウンターに取りに行ったりしている。テーブルがワインとから揚げやひまわりの種などのつまみもので一杯になった。灰皿に田中が煙草の吸殻を押し付けた。話題は、ディズニーランドのチケットで盛り上がった。魚屋の社員は、ディズニーランドのチケットが半額で購入できるのに、山田は買わなかったということを田中が言うと、彼女たちは一斉に「えっ」と声を上げた。カウンターに立っている日本語のわからない女性が驚いてこちらのテーブルを興味深そうにのぞいた。
真っ先に蒋麗は、山田を睨みながら、そのチケットを私とジーナに譲ってよと田中に微笑みかけた。ジーナは、行きたいよと繰り返し無邪気に笑う。
「次にチケットを半額で購入できるチャンスはあるの?」
と蒋麗は、先ほどから煙草を吸い続けている田中に聞いた。
「半年に一度くらい」
「じゃあ、今度のときは、私たちお金を出すから、あなたに譲ってもらわないとね」
と山田を不快気に眺めて、目を逸らした。
山田は蒋麗のことを大学時代の友人だと説明した。ジーナは、えっと口を大きく開けてから、どこか遊びに行ったりしたのと聞いた。蒋麗は黙ったままである。山田は苦笑いをしているだけだ。
けれども、田中がディズニーランドの話を再度してからは、その話がいつまでも続いた。シンデレラ城の由来について蒋麗は本当に詳しかった。ジーナはジェットコースターに乗る人が両手を挙げて、叫ぶ姿が楽しかったとはしゃいでみせた。田中は彼女と行ったときにキスした場所のことを話していた。自慢話のようなところは、彼女たちがしらけた顔を故意にして、田中を楽しませていた。ディズニーランドに出会ったばかりのカップルが行くと、愛が成就することが多いらしいねと田中は調子に乗った。成就と二人が興味深そうに聞くと、彼は大げさに腰を振ってみせた。蒋麗は笑うと立ち上がって、なんてことをするんですかと日本語を正確に発音して、彼の頭を叩いてみせた。
それから一ヶ月間、山田はよく蒋麗にメールを入れた。
『三年前、正月の深夜、歌広場で働いていたのは、遊ぶ金を稼ぐためではないのですね。それなのに、自分のしたことを考えると恥じ入る思いです。約束していた時間に寝坊してそのままにしたなんていう自分自身が蜘蛛や蠅のようで嫌です。何か欲しいものありませんか?』
と書くと、珍しく返信がきた。
『デジカメが欲しい。自分の姿を撮って、親にメールで送ると喜ぶから』
『わかりました。買いましょう。その代わりに一つお願いがあります。あの日、行けなかったディズニーランドへ一緒に行ってくれませんか?』
線路が微かにに振動した。遠くの並木道の影から電車が真夏の光を浴びて現れた。
「やっと来たね。暑くて汗が出て嫌になる」
と蒋麗は早く電車に乗りたいように、脚を交互に持ち上げてみせた。
電車が駅の構内に勢いよく入ってきた。風が吹きつけると、蒋麗の肩まで垂れた髪が後ろに流れた。レモンの匂いがする。二人は乗ると、すぐに電車のドアが閉じた。徐々に加速する彼らの車内には、他に昼寝をする中年の男と二人の若い女が携帯電話のディスプレーを熱心に眺めているだけである。冷房が適度に効いていた。
「今日はごめんね。仕事が忙しくて、ディズニーに行けない。デジカメだけ買ってもらって、今度行くことにしよう」
デジカメを買ってあげてから、蒋麗は黙りがちになった。新宿のアルタ前から新宿駅に向うゆるやかな勾配で、蒋麗は振り返り山田の顔を眺めた。
「行きたい?」
「えっ」
「ディズニーランドに行きたい?」
「行きたいけど」
「やっぱり行きたいよね」
と自分を奮い立たせるように言うと真剣な目になった。
「いや、忙しかったらいいよ。仕事が一段落ついて、三年前のように楽しい気持ちのときに行こう」