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日々に出会った美を追求していく!

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ジーナ5

                  七

 翌日、ジーナから電話があった。
「昨日は、ありがとう」
 楽しそうに笑いをこらえていた口を開けて話すジーナの顔が浮かんだ。彼女はいたって変わらないのだ。私の異質性に対する警戒心が、昨夜のような文章を書かせたのだと考えた。
「ちょっと、緊張しちゃって」
「緊張しなくていいよ。みんな、いい人達だから」
「昨日はマリアがいなかったね」
「うん、仕事をする日を一日減らされたみたいなの。私も同じく一日減らしたわ。大丈夫よ。来てくれてありがとうね。本当にありがとうね。おいしかったわ。ごちそうさま」
 と急いで話し始めて、最後は微かに涙声になった。
「また、今度行くよ」
 

 
 梅雨入りは魚屋にとって、一年で一番嫌な時期だ。食中毒が最も多く出る月である。去年は、別の店で、自家製〆サバを食べたお客が、腹痛を起こして病院に運ばれた。今年は、刺身を切る衛生俎板に、アルコールスプレーを十分おきに、必ずしなければならない。大根ツマの大きな袋を置く専用の皿も用意された。
「十分おきにスプレーをして」
「えっ、わかっているわ」
 それから、十分以上経って、また同じように注意した。
「わかっていたのよ」
 とジーナは鼻から息を吐いた。
「去年、刺身で、病院送りになったお客が出ているから頼むよ」
「これでなるの? ミンダナオでは、川で釣ったよくわからない魚を、なんでも塩漬けして食べていたわ」
 と彼女はお腹を押さえて、真顔になった。目は何かに怯えているようだ。噴出さんばかりの怒りを、必死に抑えているようにも見える。動き回るのを止めない猛獣が、彼女の心の檻にいるのであろうか。大岡昇平著『野火』で、戦火のフィリピンを飢えてさまよう田村が、殺した同朋の人肉を食べて生き延びようとする戦友達を目の当たりにして、「この世は神の怒りの跡にすぎない」と断じた場面に相通じるものがあるのではなかろうか。ジーナの幼い頃、村にゲリラが現れた。村長が後ろ手に縄で縛られて、山奥に連れていかれるところを目の当たりにしたと話しながら笑っていたことを思い出した。
「切っている魚、マグロ、イカ、サーモンは、フィリピンでは食べられないものばかりよ。妹にも食べさせたいの。日本で生まれたことはラッキーよ」
「人はいつも不満だよ。どんなに満足そうにしていたって、満たされないものだよ」
 私は窓を開けて、いらっしゃいませと売場を眺めた。醤油風味の焼肉の匂いがした。モランボンの業者が試食販売で来ているのだろう。
「いい匂いがするね。今度、焼肉を食べよう」
「うん」とジーナは黙ってうつむいた。それから、気がついたように顔を上げ、ドアの前に駆け寄った。こちらを向くなり、満面の笑みで人差指を唇に当てた。真っすぐに伸びた指には張り詰めた力があった。指を離すと、笑いながら身体を何度か前のめりにして、私を窺っているようだった。にやり突きをされると訳もなく笑ってしまうのと同じで、私は心地良く笑みを浮かべ頷いていた。
 

 雨が降りしきる日は、お客の入りもまばらだ。一時間、鮮魚コーナー前を、一人も通らないことがある。ジーナには刺身をゆっくり切るように話した。彼女は切りながら、窓ガラス越しの売場を眺めてはおかしそうに首を傾げている。今日の午後は、作業場に二人だけしかいない。私は用意した写真を見せた。
 これ、どうしたのと顔の血の気が引いた。写真を渡そうとしたけれど、決して取ろうとはしない。私の顔を窺いながら、不快そうにマグロの柵を急いで切りだした。切るのに疲れると顔を上げた。一息ついてから、透けるような赤身の柵に、柳刃を垂直に入れる。柳刃包丁の刃先から現れたマグロの新たな側面が、赤いトルマリンの光彩を、刹那放った。
「ここに行ったことがあるの?」
「日本に来る前、お母さんと……」
「何をしたの」
「そのNSCはスーパーなのよ。いっぱい物を買ってくれたの。塩も買ってくれたわ。塩を舐めれば一カ月は生きられるって言うからね。」
 タグムシティーの画像をインターネットで探し、めぼしいものを印刷してきた。低い軒並の街中で、一際目立った十階建てのビルディングは、特別の事情が無い訪問を拒むオフィスように飾り気なく、青空を映した窓ガラスに占められていた。左隅に青字で小さくNCCCとマークされている。
 同じくタグムシティーの写真をもう一枚見せた。
 ジーナは包丁を手放し、両手を俎板の端に置き、楽しいことを思い出したように顔を上げた。
 所々にひびの入ったアスファルト舗装道路が、遥か先の雲間まで続いている。車道の両側に並ぶ街路樹のナラが、電信柱のように一定の間隔を保っている。砂漠の海に浮かんでいる道のようだ。そこを、グリーンのオート三輪が、疾駆している。三輪車の後部は、爆撃で破壊されたように開いていた。私は亀の背中に乗って竜宮城に向かう浦島太郎をイメージした。
「このずっと先に、私の家があるの。兄さんも弟も、妹もお母さんもお父さんもいるのよ」と雲の間を指差した。「それに、お兄さんはこのオートバイを使って働いているの。後ろから客を乗せるようになっているの」
「逃げられるかもよ」
「逃げたら追いかければいいのよ」
「お金に困った人は悪いことをしそうだけど」
「そういう場合は、振り落とせばいいのよ」
「結構、このオートバイを利用する客がいるんだ」
「リヨウ?」
「使う客がいるかということ」
「一日に二人だけという日もあるんだって…… なんでも難しいよ」
 と声を落とした。
 スライスしたマグロの角が立たず、丸みを帯びている。私は焦った。すぐに角が白く澄んでいるのを確認して安心した。冷凍まぐろは、完全に解凍すると、色が赤黒くなって、水分と共に旨味が逃げてしまう。しかし、これは、マグロの脂が強すぎたことで、溶けるのが早かったにすぎない。
「美味しそうだね」
 舌先にのせただけで、溶けそうなほど脂ののったマグロを指差した。
「うん、美味しそう」
 とジーナは目を大きくした。俎板に頭を近付けて、マグロの柵を切り出しながら、頑張るしかないと言った。

 

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