nyoraikunのブログ

日々に出会った美を追求していく!

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ジーナ4

                   六

 初めてパブを訪れた夜、なかなか眠れなかった。私は夜中に寝床から這い出し、パソコンに向かって、作家になった気分で小説らしきものを書きつけたのだ。
 ――運ばれてきたウインナーとベーコンは、どれも黒ずんでいた。伊藤には、それが千五百円する食品には思えなかった。パブ『ケイ』のママは、伊藤とジーナが話しているテーブルに入ってきた。紙皿に盛られた食品を指差して、中国語でホールの女性にまくし立てる。こげたものを出すなということだろうか、それにしては、皿が戻される気配はない。しばらくして、ケチャップをホールの女性が持ってきた。銀紙の皿に目一杯入れ、片言の日本語で、ごめんなさいと顔をこわばらせた。ママは平然たる顔つきで、ケチャップの量が少ないことを怒ったのだわと顎を突き上げてみせた。次に、ウインナーの端をかじってみせ、息を軽く吐くと、うまく焼けているわねと早口で話す。
 明かりが照らされるたびに、かじった痕には、煙がたなびいている。ベーコンはペットショップに売られている鶏や犬の餌のように、精彩を欠いていた。
 伊藤はこの店に来たくはなかった。ママはからかうように大人しい人ねを繰り返し言うので、彼の癪にさわった。無口で面白みがないと言われている気がするからである。ママは、相手を言葉で突き上げるような態度なので、違う席に行って欲しかった。一重瞼の目は、いつも冷たく笑っている。客であるこちらが何を言おうと高飛車にしりぞけられる勢いで笑う。よくパブのママがつとまるものだと思った。
 日中、魚屋で働く伊藤は、午後、パートアルバイトにくるフィリピン人のジーナが、夜のパブに来れば、もっと話すことができるというので来てみた。ただジーナとだけ話したかったのである。
「パブのママになるのに、必要なことは何ですか?」
「金よ、それに決まっているじゃない」
 間髪を容れずに答えた。
「チェーン展開はしないのですか?」
「チェーンは考えているけれど、だれかに私の代わりが務まればね。とっても無理な話よ。まだ、ここの借金も返してないのだから、でもいつかパブ『ケイ』を二つ、三つにしていくつもりよ」
 早口で歯切れよく話す。伊藤の顔をじっとみつめて、見下げたような笑いをする。ママが着ているチャイナドレスは、胸元に銀や金をちりばめ、渦を巻いている。彼はママの目から目を逸らし、しばらくその刺繍を眺めていた。博物館の展示物をウィンドウ越しにぼんやりと見物しているように何度もまばたきをした。隣にいたジーナがグラスにビールをお酌する。ママはテーブルにグラスの音を立てるように置いて、飲もうかしらねと笑った。
 彼が顔を上げると、ママはまた笑った。ジーナは彼にビールを手渡して、無邪気に笑ってみせた。
「こういう店に、伊藤さんは、あまり来たことないから……」
 彼は気を利かせて、ジーナのグラスにもビールを注いだ。途中で瓶が空になってしまった。
「私飲めないわ。お腹壊して……飲むとお腹に石があってね」
 伊藤はどうしていいかわからずにもごもごしていた。もう一本いこうとママは勢いよく席を立った。その間、彼女は彼のシャツを引っ張り、ウインナーに爪楊枝を差してみせた。目を細めて合図する。
紙皿に盛られたウインナーは手付かずで、汁が出ている。焦げたところがじりじりと蠢いてとまった。ベーコンの端は、しなびてぐったりとしている。スーパーマーケットの精肉試食コーナーに置き忘れたままになっているのに似ている。座っている膝元まで見える透明なテーブルに置かれた紙皿は、飾り気もない白で、隣に置かれた灰皿は、煙草がぎっしりとつまっている。そのうちの一本は、線香のようにゆらゆらと煙をたなびかしている。
「あなたは煙草を吸わないの」
 ジーナはライターを卓の上に置いた。
 ピンク色をしたライターは、ジーナのあらわになった胡桃色の腿と重なって見えた。室内を照らして回る青い光が、ちょうどライターと重なった。一瞬、星の輝きを帯びて、すぐさま、もとに戻った。星の光が長い間暗い部屋で寝ていた人の目を射ることがあるように、その輝きは刹那であるが、強いものがあった。
日頃の彼女は、目を大きくして何に対しても無邪気によく笑う。それが、先ほどから長髪をかきわけて澄ましては、少なくなったグラスに色目を使いながら、黙ってビールをそそぐ。昼の仕事を思いだしていた。伊藤が見本で切った刺身の盛り合わせの端材を捨てると、ジーナはそれを拾って、これは売れるよと口をゆがませてみせる。よく覚えた刺身だけは、他の人に負けたくないという気持ちが伝わってくる。かつおの刺身にしょうがが入っていないのを注意すると、かわいらしい目を大きくして、口を開けて、飛び跳ねてみせた。彼はしょうがを取ってきて、刺身の蓋を開けて、一つ一つにしょうがを丁寧に入れてみせた。すると、彼女は下を向いてすみませんと謝った。
「刺身を切っているときのジーナさんと違うね」
 先ほどから、落ち着いて斜め上を眺めているので、退屈しているのではないかと伊藤は思ったのである。間を空けてから、人差し指を口に当てて、前に何回か身体を倒しそうになり、それから、顔を上げて、八字眉をつくって大声で笑った。
 爪楊枝が刺さったウインナーが、丸い紙皿の端で小刻みにゆれている。細く小さい一本の影もゆらゆらゆれる。またジーナは爪楊枝を他のウインナーに刺して、伊藤の口元に持っていった。彼は律儀に爪楊枝を手に受け取り、ぬくもりがまだ残っていそうな端っこをかじった。口の中ですぐに肉が崩れ、冷たい味が舌先に残った。紙皿に戻すと、二本の爪楊枝が、ウインナーを船にして、芯だけ残された帆柱のように影と共にゆれている。
「何か食べないの」
「お腹が空かない。ところで、ママが帰ってこないね……」
 ジーナは立ち上がって、目を細めてみせた。トイレに急いで入った。出てくると、不機嫌にテーブルの前を行ったり来たりする。
「ちょっと食べたいものがあるんだけどいい」
 いいよと返事する前に、ママがビールを持ってきた。
 静まり返ったテーブルの上にあるベーコンをママは2、3口にした。うまいともまずいとも言わずに、また食べては、神経質そうに首を何度もひねって待っている。顔がとても小さいなりに、目も鼻も耳も口も小さい。草の先端に止まっているかまきりをじっと見つめると、こんな首の動かし方をするものだ。
 ジーナが白い紙皿に、パンをのせてきた。長方形のパンの上部は、艶のある小麦色で、蒸気がたなびいている。先端と後端の面は、亜麻色に着色されている。側面は、バターのうまみがたっぷりこもっているかに思わせるほど飴色だ。さっきは、目を細めて不快そうにしていたジーナも、口を半円に開けて笑っている。ママも幾度かまばたきをしながら笑っている。
 伊藤は不安そうにテーブルに置かれたメニュー表に目を向ける。

 ここまで書くと、眠りが急に襲ってきた。身体が鉛のように重い。なんとかたどりついた布団に倒れ込むようにして、そのまま眠ってしまった。

 

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